主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

マタイの福音書26:36-46 「イエスの悲しみ」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」(マタイの福音書26:41)

【礼拝メッセージ要旨】

今日は、十字架を前にイエスがゲツセマネの園で祈られた姿から、ご一緒に思い巡らしたいと思います。

1)ゲツセマネの園へ
最後の晩餐を終えて、イエスは11人の弟子たちを連れてオリーブ山へと向かいました。その道の途中で、イエスは弟子たちに衝撃的なことを告げます。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。」(31)信じられないような言葉でした。これを聞いて、即座にペテロが答えます。「たとい皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」(33) しかしイエスは、今夜彼がつまずくことを予告しました。それが現実となってしまいます。そうしてイエスは彼らを連れて、オリーブ山のふもとにあるゲツセマネ(油搾り)の園にやってきました。そこでは収穫したオリーブの上に重い石を置いて、油を搾り取る作業がなされていました。そこがイエスの「祈り場」となっていました。ある意味で、一人神の前に出て真剣に祈りをささげ、自分自身と向き合うということは、そのように「搾り出される」ような作業とも言えるのかもしれません。イエスはいつもそのような祈りをささげておられたのではないでしょうか。

2)イエスの悲しみ
そうしてイエスは、ペテロとヤコブとヨハネを連れて、その祈り場に進んで行かれました。この時イエスはどんな思いでおられたでしょうか。「悲しみもだえ始められた」(37)、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(38) イエスは十字架を前にして、人として深い悲しみを経験されたのです。それは、「別れの悲しみ」と言えるものであったと思います。イエスの悲しみの理由として、大きく2つあると思います。

①一つは、「父なる神様との別れ」です。イエスは、父なる神のひとり子として、父なる神との親しい交わりの中にありました。それは、私たちの親子関係以上に親密な関係と言えます。しかし、父なる神は、大切なひとり子であるイエスを人としてこの世界にお遣わしになりました。それは、神から離れていた私たち人間を罪の奴隷から救い出すために必要なことでした。そのために、イエスに私たちの罪を負わせて、代わりに神のさばきを受けさせるということをなさいました。それが、私たちが救われる唯一の方法だったのです。イエスはそのために十字架につけられました。しかし、イエスにとって、人の罪を負って十字架につけられるということは、とても耐えがたいことでした。全く罪のないお方が罪に定められて、父なる神との交わりから切り離されることが、どんなことよりも耐えがたいことであったと思います。愛する御父と別れなければならない、そのことが悲しかったのではないでしょうか。「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(39)「あなたのもとから離れたくありません」と言われているように思います。

②もう一つの理由は、「弟子たちとの別れ」です。イエスは弟子たちの弱さを思い、彼らをあわれに思われました。この時、3年間育ててきた愛する弟子たちがご自分を裏切り、つまずいて離れていくことを告げなければなりませんでした。イエスにとって、それはどんなに辛いことだったでしょう。愛する弟子たちが、弱さのゆえに離れていってしまうことを悲しまれたのだと思います。ペテロの姿は、まさに私たちの姿そのものを表わしているのではないでしょうか。イエス様は、そんな私たちの弱さをすべて分かっておられて、心配して見守り、となしてくださっています。

3)イエスの祈り
そうした悲しみの中で、イエスは父なる神に祈りをささげました。「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(39) イエスは、御父のみこころに従って十字架に向かわなければならないと分かっておられました。それでも、愛する御父との交わりから離れたくないという願いがありました。また同時に、愛する弟子たち(また私たちのこと)をあわれに思い、彼らを失いたくないという思いもあったでしょう。イエスの中には葛藤があったのだろうなと思います。「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」(42) この時イエス様は、ご自分の願いよりも、私たちが罪から救われることを心から願われて、十字架へ向かう決心をされました。あの情けない弟子たちのために、そしてそれ以上に弱い私たちのために、イエス様は十字架に向かう道を選ばれたのです。

私たちも祈りの中で、自分の願いが神のみこころではないと示されることもあるでしょう。それは受け入れがたいことです。それでも、神様は最善をなしてくださると信じて、受け入れて、お委ねしたいと思います。

4)私たちへのエール
この祈りの間に、イエスは弟子たちに励ましのことばを送りました。ご自分の祈る姿を弟子たちに見せて、そしてエールを送られたのです。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」(41) イエスが悲しみながら真剣に祈っている間、弟子たちは睡魔に負けて、眠りこけていました。彼らはこの時、まだ自分の弱さに気づいていませんでした。しかし後になって、いやというほど思い知らされることになります。彼らが自分の弱さに気づかされた時に、この言葉が心にしっかりと刻まれたのではないでしょうか。

「霊は燃えていても肉は弱いのです」この言葉は、私たちにとっても、ぜひ心に留めなければならないことです。自分は誘惑に陥りやすい弱い者であるということです。だからこそイエス様が必要なのだ、ということをぜひ覚えたいと思います。そして、私たちのために十字架に向かわれたイエス様に信頼して祈り続けてまいりましょう。