●主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)
マタイの福音書26:26-29 「これはわたしのからだです」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」(ルカの福音書22:19)
【礼拝メッセージ要旨】
今日は、レントに関連して、「最後の晩餐」の出来事から、教会が聖礼典として定めた「主の晩餐」について思いを巡らしたいと思います。
1)最後の晩餐
ほとんどの教会では、礼拝の中で「主の晩餐」(聖餐式)行われていると思います。クリスチャンの方にとっては当たり前のことですが、一般の方々には不思議に思われるような儀式かもしれません。「主の晩餐」という言葉はⅠコリント11章に出てきますが、もともとは教会での食事の交わりそのものを指していたようです。その主の晩餐の始まりとなった出来事が、今日の箇所に記されています。ダビンチの「最後の晩餐」としても知られている、イエスと弟子たちの食事の場面です。この時、「過越の祭り」と呼ばれる、ユダヤ人の大切な祭りの時期を迎えていました。彼らの先祖がモーセに率いられてエジプトから脱出した出来事を記念して、守り行われていた祭りのことです。イエスは、弟子たちをその「過越の食事」に招きました。
2)これはわたしのからだです
この時イエスは、一枚の種なしパンを裂いて、弟子たちに分け与えました。このところに3つの行為が記されています(26)。それは、イエスの身に実際に起こったことを表しているように思います。
①まず、イエスはパンを「取り」ました。これは「イエスが神に選ばれたこと」を意味していると思います。イエスは、父なる神様に選ばれて、人としてこの地上に遣わされました。
②次にイエスは、神をほめたたえてパンを「裂き」ました。これは、「イエスが十字架でその身を裂かれること」を表わしていると思います。イエスは、無実の罪で十字架につけられ、その身を裂かれました。その背後には、ユダヤ人指導者たちのイエスに対するねたみや憎しみがあり、彼らに扇動された民衆の姿があり、イエスを見捨てて逃げ出した弟子たちの姿もありました。また、ローマ総督ピラトの自己保身がありました。そうした人々の罪によって、罪のないお方が死に定められたのです。
③そしてイエスは、その裂かれたパンを弟子たちに「与え」ました。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」(26) このパンがイエスのからだだというのです。これにはどういう意味があるのでしょうか。それは、イエスのからだがこの私にも与えられた、ということを意味していると思います。イエスが、「この私の罪のために」十字架でその身を裂かれて死んでくださったということです。そのパンを受け取って食するということは、その信仰を自分のこととして告白することを意味しています。
また、「これはわたしのからだです」と言われたことには、もう一つ大切な意味があると思います。イエスは、「わたしがいのちのパンです」と言われました(ヨハネ6:35)。それは、イエスが本当のいのちを与えるパンとして私たちのところに来てくださった、ということです。私たちが生きていくためにはパン(食物)が必要です。しかし、パンだけでは私たちの心の飢え渇きを満たすことはできません。私たちの心が本当に満たされるためには、私たちを造ってくださった神様とつながることが必要です。天の神様から離れていた私たちが神様との正しい関係に入れられることによって、本当の平安をいただくことができるのです。そのために、イエスが「いのちを与えるパン」として来てくださいました。イエスを心にお迎えするならば、その人は満たされます。これが、神様が約束しておられる「永遠のいのち」です。私たちが毎回このパンをいただく時、「私はイエス様を信じて、今天の神様につながって、永遠のいのちを受けている」ということを再確認して、心からの感謝をおささげしたいと思います。主の晩餐にあずかる度に、このパンをいただくことの意味を毎回思い起こしたいと思います。
3)これはわたしの契約の血です
最後の晩餐の席で、イエスは弟子たちにぶどう酒もお与えになりました。「これは~わたしの契約の血です」(28) 「血」とは、イエスが十字架で流された血潮のことです。なぜ「契約の血」なのでしょうか?一般に「契約」というと、お互いに約束を取り交わすことを意味します。守れなかった場合はペナルティが課されます。神様は、最初ユダヤ人と契約を結ばれました。アブラハムに、「あなたの子孫を祝福する」と約束されました。そしてモーセの時代になって、その祝福を受ける条件として律法を守ることが求められましたが、彼らは完全に守ることはできませんでした。守れなかった時に、そのペナルティとして、彼らに代わって動物の血が流されました。しかし、動物の血は不完全でした。毎日、血が流されたのです。やがてイエスが来られて、この契約が新しくされました。律法を守れない人間のために、今度は動物ではなくてイエスの血が流された、ということです。一回限りの、完全な血が流されたのです。このイエスの血を信じる者は罪が赦され、神様に受け入れられる、という契約が結ばれました。神様が一方的に結ばれた契約です。本来、私たちが受けるべきペナルティを、神のひとり子であるイエスが代わりに負ってくださったというのです。それほどまでのことをして、神様は、私たち人間を祝福するという約束を果たしてくださいました。主の晩餐でぶどうの杯をいただくのは、このイエスの血によって、神様との間にこの契約が結ばれていることを思い起こすことを意味しています。
主の晩餐にあずかる度に、この私たちの信仰を確認したいと思います。パンを食する時に、イエス様がこの私の罪・弱さために、十字架でその身を裂かれたことを思い起こしましょう。ぶどうの杯を飲む時に、神様がこの私を祝福したいと願って、一方的な恵みの契約を結んでくださったこと、そして、そのしるしとして、神の御子イエス様の血が流されたことを思い起こしましょう。そして、「どんなことがあってもイエス様に従っていきます」と、心から告白できるものとなりたいと思います。