主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

列王記第一12:1-20 「分裂と神のみこころ」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、」(エペソ人への手紙2:14)

【礼拝メッセージ要旨】

ソロモンが神に背いたことにより、イスラエル王国は彼の息子のレハブアムの時代に二つに分裂することになります。今日の個所にはその経緯が描かれています。

1)北の部族の訴え
ソロモンが死んで、息子レハブアムの即位式がエルサレムから北に50キロ離れたシェケムの町で行われます。一方で、ソロモンの有能な家来でありソロモンに反逆するようになったヤロブアムは、一時エジプトへ逃れていました。北の部族の人々はヤロブアムをエジプトから呼び寄せて、彼を代表として立てて、レハブアムにある訴えをします。ソロモンの時から課せられていた重税と過酷な労働を軽くしてほしいと直訴したのです。これを聞いたレハブアムは、彼らに三日後に来るように告げて、その間自分の家来たちに助言を求めました。まず、ソロモンに長年仕えていた長老たちに「この民にどう返答したらよいと思うか」と相談し、彼らは民の訴えを聞き入れて、負担を軽くすることを進言しました。しかしレハブアムはこの助言を退けます。気に入らなかったのです。次に、自分とともに育った若者たちに相談しました。同世代の、自分を取り巻いていた気の合う仲間たちです。彼らは、長老たちとは逆の助言をします。王としての権威を示すためにもっと重いくびきを負わせることを提案したのです。レハブアムはこの助言を気に入りました。最初から結論ありきで、自分の思いを後押ししてくれる意見を求めていたのではないでしょうか。彼は民の苦しみを思いやることが出来ずに、自分の思いだけで判断してしまいました。気を付けていないと、私たちもそういうことがあるかもしれません。人のことばに、そして神のことばに真摯に聞く姿勢を持ち続けたいと思います。

2)王国の分裂
そうしてレハブアムは、彼らに対してさらにくびきを重くすると宣告します。これを聞いて、北の部族の人々は、レハブアムとたもとを分かつ決心をします。レハブアムを王として認めずに、その場を去りました。「このようにして、イスラエルはダビデの家に背いた。」(19) この時以来、北イスラエルの10部族は、南のユダ族の支配から離れることになります。王国は北イスラエルと南ユダの2つに分裂してしまいました。北イスラエルはヤロブアムを王として立て、南ユダにはベニヤミン族が残り、レハブアムが王となります。こうして、本来一つの家族であったはずのイスラエルは2つに分かれて、以来、それぞれの道を歩むことになります。その後、それぞれの国が滅ぼされるまでの間、決して一つになることはありませんでした。このように、王国の「分裂」の背景には、人々の様々な思い(罪)が渦巻いていたのです。

3)分裂と神のみこころ
今の時代も、同じようなことが人の世に起きています。いたるところに争いや対立があって、「分裂」や「分断」があります。私たちの身近なところでも、集団同士の対立や個人同士の反目があるように思います。なかなか歩み寄れないのが人間社会の現実でもあります。教会の歴史においても、そのようなことが繰り返されてきました。そんな私たち人間の姿を、神は悲しんで見ておられるのではないでしょうか。お互いに平和な関係を築けることを神は望んでおられます。

一方で、分裂することは必ずしも悪いことばかりではありません。別々の道を行くことで、それぞれが益とされる(神が益としてくださる)こともあると思うのです(パウロとバルナバのように)。但し、分裂することでお互いの間に「反目」や「憎しみ」や「敵対心」が残り続けるとしたら、神が喜ばれることでないことは明らかです。残念ながら、今の世界ではそうしたことが大きな問題となっています。

4)二つのものを一つに
しかし神は、そうした人間社会の現実の問題を放っては置かれませんでした。そこに解決の道を示してくださいました。
「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、」(エペソ2:14) 「私たち二つのもの」とは、「ユダヤ人」と「異邦人」のことです。ユダヤ人は、エルサレムの神殿の内庭に異邦人を入れないように、「隔ての壁」を築きました。彼らには「選民意識」や、神を知らない異邦人に対する「偏見や差別意識」がありました。その「隔ての壁」には、そうした「敵意や敵対心」が表わされていると言うのです。今も、世界中いたるところに、そして私たちの身近なところにも、「隔ての壁」が置かれているように思います。私たちも、自分でそんな「壁」を作っているということはないでしょうか。

しかし神は、キリストによってその「隔ての壁」を打ち壊してくださいました。イエスが十字架で息を引き取られた時、エルサレムの神殿の奥にあった「幕」が「上から下まで真っ二つに裂けた」と聖書に記されています。それは、人間の罪のゆえに神と人を隔てていた幕が取り除かれたことを意味しています。イエスが私たちの罪を代わりに負って、贖いを成し遂げてくださったことで、そのことを信じる者たちは罪が赦されて、神に近づけるようにされました。神様の方から、その隔てていたものを取り除いてくださったのです。それは同時に、イエスの十字架によって、人と人を隔てていた壁(敵意)が取り除かれる、ということも意味しています。

「実に、キリストこそ私たちの平和です」イエスは、二つに分かれていたものを一つにし、回復してくださるお方です。イエスのもとに来る時に、すべての敵意は取り去られ、一つとされて、真の平和がもたらされるのです。ここに私たちの希望があります。イザヤ書11章のみことばが思い起こされます。「狼は子羊とともに宿り~」(11:6~9) 今の世界に、そして私たちの周りに、こんな平和が訪れたらどんなにすばらしいことだろうと思います。それは決して不可能ではないと思います。神にはそのことができると、信じて祈り続けてまいりましょう。