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列王記第一15:9-24 「主とともにある人生」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「アサの心は生涯、主とともにあり、全きものであった。」(列王記第一15:14)
【礼拝メッセージ要旨】
イスラエルが北イスラエルと南ユダの二つに分裂して、以来、それぞれの道を歩むことになります。全体として悪い時代に向かって行きますが、南ユダでは時々善い王様が起こされて、主に立ち返る、ということがなされていきます。「アサ」王も、南ユダの「善い王」の一人として数えられる人物です。今日はこのアサ王の姿に目を留めたいと思います。
1)アサ王即位時の南ユダの状況
アサは、南ユダの3人目の王であり、ダビデから数えて5代目となります。「アサは父祖ダビデのように、主の目にかなうことを行った。」(11)彼は41年間、主に従ってユダを治めます。彼の父の代までは、主の目に悪であることが行われていました。国のいたるところに外国からもたらされた異教の神々の像が置かれ、異教の悪しき慣わしである「神殿男娼」がいたのです。それほどまでに、ユダの民は霊的に堕落していました。ソロモンの時代からまだ20年ほどしか経っていない時です。主に従い続けることがいかに難しいことか、物語っているようにも思えます。
2)アサ王の宗教改革
これほど堕落した時代でしたが、アサ王の心はしっかりと主に向いていました。アサがアビヤムに代わって即位すると、彼はさっそく「宗教改革」を実行します(12)。まず、あの忌まわしい「神殿男娼」を国から追い出しました。また、国中に置かれていた偶像の神々を徹底的に取り除きました。さらに、自分の祖母であり、偶像崇拝を行っていたマアカを皇太后の位から退けます。自分の身内に対しても、臆することなく大胆に宗教改革を断行したのです。アサは、イスラエルの神に従うことを何よりも大事なこととしました。そんなアサの姿を、聖書はこのように評価しています。「アサの心は生涯、主とともにあり、全きものであった。」(14) しかし、彼にも「弱さ」がありました。
3)アサ王の失敗
アサ王と北イスラエルの王であったバアシャとの間には、絶えず戦いがありました(16)。アサ王の晩年に、バアシャがユダに攻め込んでラマの町を占領した時、アサは北の大国アラムに助けを求めます。アラムの王に金銀を贈って、北イスラエルとの同盟を破棄させて、北側から攻撃するように依頼しました。その策略はうまくいって、アサはラマを奪還します。しかし、そのことで主から責められます。「あなたはアラム王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。」(歴代Ⅱ16:7) まず主に信頼して祈り求めるべきだったのに、そうせずに人間的な知恵と人の力に頼ったということです。また、その後アサ王は両足とも重い病気にかかりますが、その時彼は「主を求めず、医者を求めた」ということも歴代誌に記されています。もちろん、医者を求めることは悪いことではありません。しかし彼は、主に祈り、委ねる、という大事なことを見失っていたようです。
4)主ととともにある人生
このように、アサ王は人生の晩年になって失敗をしてしまいます。人生の最後まで完全に主に従い通した、ということではありませんでした。私はこのアサの姿を見て、正直ホッとするような思いもします。なぜならば、あのアサ王も失敗したと思えるからです。神は「アサの心は生涯、主とともにあり、全きものであった。」(14) と言っておられます。たとえ失敗しても、彼は生涯に渡って主とともにあったのだと言っておられるようです。彼が堕落していたユダを主に立ち返らせようとして、懸命に努めたことを神は評価してくださっているのではないでしょうか。一度失敗したらダメなのではない、ということです。失敗しても、悔い改めてやり直せばいいのだと、神は言っておられるように思うのです。ダビデの時もそうでした。人生何度でもやり直せるのです。このところに、大きな慰めと励ましを覚えます。
私たちが生涯、主とともに歩むことができるように、神は御子イエスを私たちのところに遣わしてくださいました。イエスは、あの十字架で私たちの罪を引き受けて、私たちの代わりに罪の償いをしてくださいました。そして、私たちに罪の赦しを与えてくださいました。このイエス様が、今も生きて私たちと一緒に人生を歩んでくださいます。弱い私たちを助け、励まし、導いてくださるのです。私たちも失敗します。私たちは決して完璧にはなれません。そんな時は悔い改めて、またイエス様を見上げて歩んで行けばいいのです。
たとえ失敗しても、不完全でも、イエス様に拠り頼みながら、主とともにある人生を歩み続けてまいりましょう。