主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

列王記第一18:16-39 「主こそ神です」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「知れ。主こそ神。主が 私たちを造られた。」(詩篇100:3)

【礼拝メッセージ要旨】

飢饉が始まってから3年目、主はエリヤにアハブに会いに行くようにと命じます。そこで彼はたった一人で、大勢のバアルの預言者たちと対決をすることになります。

1)エリヤ、アハブに会いに行く
その後、飢饉から3年目に、主はエリヤを再びアハブのもとへと遣わします。その途中、エリヤはアハブの宮廷長官のオバデヤに出会います。彼は主を恐れる人でした。エリヤは、アハブに自分がここにいることを知らせるようにと告げますが、オバデヤはアハブを恐れて躊躇します。エリヤは彼を説得し、やがてアハブがエリヤのもとにやってきてこう言います。「おまえか、イスラエルにわざわいをもたらす者は」(17)アハブは全く悔い改めていませんでした。そんなアハブに対して、エリヤは預言者対決を申し出ます。カルメル山に450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者を集めて、エリヤと対決するというのです。アハブはこの提案を受け入れます。圧倒的に自分たちの方が優位だと考えたようです。彼はただ人間的な力(数)により頼んでいたのです。

2)どっちつかずのイスラエルの民
そうして、カルメル山にイスラエルの民と偶像の神々の預言者たちが集められました。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが主であれば、バアルに従え。」(21) 彼らは「どっちつかずによろめいている」というのです。彼らは主を礼拝しながら偶像の神々にも仕える、というようなことをしていたのです。しかし民は、これに一言も答えることができません。
イスラエルの民は、どうして偶像の神であるバアル礼拝に陥ってしまったのでしょうか。アハブ王と妃のイゼベルへの恐れがあったと思います。また、彼らは目に見える豊かさ(繁栄)を求めていました。外国との交流によりもたらされた繁栄は、偶像の神々と結びついていたのです。そうして民は、形の上ではイスラエルの神である主を礼拝しながら、バアルに心が引かれていったようです。
今の時代も、私たちの周りには私たちの心を引くような誘惑となるものが多くあるように思います。そうしたものに心が捕らわれて、私たちも彼らのように「どっちつかずによろめいている」ということはないでしょうか。

3)預言者対決
エリヤは、いよいよアハブ王の前で850人の預言者たちと対決します。普通なら恐れを感じるところです。しかしエリヤには、そんな恐れは全くなかったと思います。なぜならば、万軍の主に信頼していたからです。人を恐れずに全能の神である主に信頼していました。まず、バアルの預言者たちがバアルの名を呼びながら祭壇の周りを踊り回ります。昼になっても、何も起こりません。彼らは必死になってますます大声で叫び、自分たちの体を傷つけてまで騒ぎ立てますが、結局何の答えもありませんでした。
今度はエリヤの番です。彼は民全体をそばに呼び寄せて、壊れていた「主の祭壇」を築き直します(30)。そして12の石を取って主の祭壇を築きました。「12の石」はイスラエル12部族を表しています。イスラエルが再び主のもとに一つになれるようにという、そんなエリヤの願いが込められているように思います。さらに彼は祭壇の周りに溝を掘り、いけにえの雄牛と薪にもたっぷり水を注がせます。普通であれば、とても火をつけられるような状態ではありません。あえて人の手によっては不可能な状況にしたようです。

4)祈りに答える神
そしてエリヤは、主に祈りをささげました(36,37)。このエリヤの祈りに、彼の信仰とイスラエルの民への熱い思いがよく表されているように思います。彼は、主は必ずこの祈りに答えてくださると信じて、心からの祈りをささげました。「そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」(37) エリヤにとって民は敵ではなく、愛する大切な人々(同胞)でした。彼が何よりも願っていたことは、彼らが偶像の神々からまことの神に心を向けて救われることだったのです。「どうか彼らを迷いから救い出してください」そんな祈りです。私たちもそのような思いで、周りにいる人々の救いのために心から祈る者となりたいと思います。
主は、このエリヤの祈りに答えられます。主の火が天から降って来て、雄牛も薪も石もすべてを焼き尽くしました。「主こそ神です。主こそ神です。」(39) この彼らの告白には、どれほど悔い改めの心があったのかは定かではありません。もしかすると、悔い改めというよりも主のさばきを恐れてという思いの方が強かったのかもしれません。

5)主こそ神
最後に、今日のこの個所から大事なことを一つ確認したいと思います。それは、「主こそまことの神である」ということです。イスラエルの民は、偶像の神々に心が引かれていました。「偶像の神々」と「聖書に示されている神」との違いは何でしょうか。3点ほど挙げたいと思います。

①第一に、「偶像の神々は、人の手によって造られたもの」ということです。偶像は、人の願いによって人の手によって造り出されたものです。しかし、聖書に示されている神は、「人の手によって造り出されたもの」ではありません。人をも造った「創造主」(造り主)であるお方です。私たちもこの大きなお方によって造られ、命が与えられました。ここが決定的に違うところです。
②第二に、「偶像には「いのち」がない」ということです。偶像には「いのち」はありません。人間が一方的に崇め、都合のいいように利用するだけです。しかし、創造主である神さまには「いのち」があります。いのちの源であり、「永遠のいのち」を与えることのできるお方なのです。
③そして第三に、「偶像は人をいつくしむことがない」ということです。人が造り出した偶像は、人を愛し、いつくしむということはありません。しかし、聖書の神は私たち一人一人のことを覚えておられて、愛してくださるお方です。私たちを造られたお方は、親が子を心配するように私たちのことを心配して見ておられます。主がどれほど私たちのことを愛しておられるかは、神のひとり子であるイエスをこの世界に人として遣わしてくださったことでハッキリと示されました。神は、私たち人間を罪から救うために、大切なひとり子のいのちをも差し出してくださいました。主は、それほどまでに私たちのことを愛し、関わってくださるお方なのです。

今日、このことをしっかりと心に留めたいと思います。私たちが信じているお方は、天地を造られ、そして私たちを造られた「造り主」である神さまです。聖書に記されている「主」こそ、私たちを愛しておられる「生けるまことの神」です。このお方を愛し、心からの信頼を寄せて、主とともに人生を歩み続けてまいりましょう。