主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

ヨハネの手紙第一5:1-5 「神を愛すること」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」(ヨハネの手紙第一5:3)

【礼拝メッセージ要旨】

今日の個所でヨハネは「神を愛すること」について語っています。「神を愛する」とは、どういうことなのでしょうか。特に「神の命令は重荷とはなりません」ということばに目を留めて、ご一緒に思いを巡らしたいと思います。

1)神を愛すること
「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(4:19)私たちは神様の愛を知っているからこそ、当然のこととして神を愛しています。では、「神を愛する」とは、どういうことなのでしょうか。私たちは私たちの造り主であるお方のことを知り、そのお方が私たちのために救い主イエス様を遣わしてくださったこと信じました(1)。「神を愛する」とは、「神の愛を受け止めて、それに応答していくこと」と言えると思います。また、「神を信じ、心から信頼を寄せること」そして「自分自身を神に委ねて、服従すること」、そのようにも言えるのではないでしょうか。例えて言えば、子どもが親を慕うようなイメージです。

2)神の命令を守ること
「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。」(3) 神を愛することと、神の命令を守ることが一体のこととなっていると言っています。「神の命令」というと、神がイスラエル人に与えた「律法」のことを思い起こします。律法は、「心を尽くして神を愛すること」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛すること」、この2つに要約されると、イエスは教えられました。これが、「神の命令」と言えます。ヨハネは特に、「兄弟を愛すること」を強調しています。

3)神の命令は重荷となる?
「神の命令は重荷とはなりません」(3) これは、どういうことを言っているのでしょうか。「重荷」とは、「重いと感じること」、「しんどいな」と思えるようなことです。神の命令を守ることは、そんな「重荷」となることではないというのです。ということは、「重荷」と感じている人たちが少なからずいたということを示しています。確かに、神の命令を守らなければならない、それに従わなければならないと受け止めるとしたら、やはり「重く」感じるかもしれません。神の命令を守ることが、守り行うべき「おきて」とか、「難行・苦行」のようなものとなってしまうでしょう。そうすると、そうしない人をついさばくような目で見てしまうということにもなるかもしれません。イエスの「放蕩息子のたとえ話」(ルカ15章)に登場する「兄息子」の姿を思い起こします。彼は、父親に仕えることをどこか「重荷」のように感じていたのではないでしょうか。自分はこれだけ一生懸命仕えているのだから、お父さんは愛してくれるはずだと考えていたようです。「ねばならないもの」と考えて、どこか見返りを求めて仕えていたように思います。彼は、父の愛がよく分かっていませんでした。私たちの信仰生活はどうでしょう。この兄息子のようになってはいないでしょうか。

4)重荷を負ってくださる方
ヨハネは、「神の命令は重荷とはなりません」と、ハッキリと告げています。神を愛することも隣人を愛することも決して重荷とはならない、というのです。私たちは、「自発的に」、「喜んで」、「自由に」神に従っている、と言えるのではないでしょうか。そうすれば、「重荷」とはならないはずです。しかし、実際には、「重荷」と感じることもあるでしょう。では、ヨハネはどうして「神の命令は重荷とはならない」と言っているのでしょうか。その理由も述べています。「神から生まれた者はみな、世に勝つからです」(4) 「世」とは、罪に支配されたこの世のことを指しています。それは、罪の性質を持つ私たち自身のことでもあると思います。イエスを信じる者は、罪を赦されて、その罪の奴隷となっている状態から解放されると聖書は約束しています。罪に支配されることはなくなるのです。そういう意味で、私たちは「世に打ち勝った者」と言えます。だからこそ、「神の命令は重荷とはならない」と言っています。

最後にもう一つ、その理由と言えることを確認したいと思います。それは、「私たちの重荷を負ってくださる方がいる」ということです。イエスは、「わたしのもとに来てあなたの重荷を下ろしなさい」と言われました(マタイ11:28~30)。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(同11:30) 「くびき」とは、2頭の牛の首につなぐ道具のことです。これは、イエスに従うことは決して重荷とはならない、ということを教えています。また、イエスが私たちの負い切れないような重荷を負ってくださる、ということも意味していると思います。イエス様が一緒になって、私たちの重い荷物を負ってくださいます。だからこそ、私たちの重荷が軽くされるのです。

私たちが悩み苦しむ時、イエス様も一緒に苦しんでおられます。そして、私たちのためにとりなしていてくださいます。このことを心に留めて、神に愛されている者として、感謝と喜びを忘れずに、心から神を愛する者となりたいと思います。