主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

創世記1:26-28,マタイ10:28-31 「一羽のすずめさえ」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「二羽の雀は1アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。」(マタイ10:29)

【礼拝メッセージ要旨】

今日は、子ども祝福式に関連しまして、創世記1章とマタイ10章から開きました。このところから、神さまと私たちの関係について改めて考えてみたいと思います。神さまにとって、私たちはどのような存在なのでしょうか。

1)神によって造られた特別な存在
まず創世記の方に目を留めたいと思います。ここには、神が私たち人間を造られ、命を与えられた時のことが記されています。このところからまず分かることは、「私たちは神によって造られた、特別な存在」だということです。人は「神のかたちとして」造られたとあります(1:26)。私たちの中には、どこか神に似たところがあるというのです。善悪を判断する心(良心)や他者を愛し思いやることができるのも、神から与えられた心と言えます。
世の中には「進化論」という考え方もあります。ある時単純な原生生物が偶然発生して、それが長い時間をかけて、より複雑な生き物へと進化して、やがて人類の祖先が誕生したというのです。もしそうだとすると、私たち一人一人の存在というものは、何の意思にもよらずに、ただ偶然の産物ということになります。しかし聖書は、永遠の初めからおられた神が、私たち一人ひとりを造り、いのちを与えられたと語っています。私たちは、創造主である神に覚えられていて、神との関係の中で生かされている、ということです。
また2:7には、人が造られた時「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」とあります。私たち一人一人は、神によって造られた特別な存在なのです。このことをまず心に留めたいと思います。

2)神は人を祝福された
創世記のところからもう一つのことに目を留めたいと思います。それは、「私たちは祝福されている」ということです。神は人を造られた時に彼らを祝福されました(1:28)。「祝福する」とは、神が愛によって恵みを与えられるということです。そして人に、神に代わってこの世界を治めるようにと命じました。私たちも、神からたくさんの恵みをいただいて今生かされています。神は、一人ひとりにそれぞれにふさわしい賜物を与え、私たちの人生に目を留めてくださっています。私たちは、神によって覚えられていて、祝福されているのです。このこともぜひ心に留めたいと思います。

3)私たちには計り知れない価値がある
次に、マタイ10章の方に目を留めたいと思います。この個所には、イエスが12人の弟子たちを遣わされた時に、彼らに命じたことが記されています。イエスは弟子たちに、この先困難が待ち受けていることを告げました。それでも、人を恐れずにあかしをし、福音を語るようにと告げて弟子たちを励ましています。この世の王たちよりも、本当に恐れるべき方を恐れなさいと言っています(10:28)。「神を恐れる」とは、神を神として認めて敬うことです。
そうしてイエスは、「すずめ」を例に出して言われました(29)。当時、雀は食用の肉として市場で売られていて、最も安いものであったようです。それほど価値が低いものということを意味しています。しかしイエスは、人の目には価値のないとされている、そんな雀の一羽でさえも、天の父なる神の許しなしに地に落ちることはないと言われました。そんな小さな弱い生き物のことも神は覚えておられて、命を保っておられるというのです。どんなに小さなものであっても、神の目には、価値ある尊い存在です。なぜならば、神が造られた神のものだからです。一羽の雀でさえそうなのだから、ましてあなたがたは、もっと大切で大きな価値がある、と言われました(31)。
そのように、神にとって、私たちは本当に大切でかけがえのない存在、他に代わりのない存在です。私たちには「計り知れない大きな価値がある」のです。

4)「たいせつなきみ」として
マックス・ルケードという人が書いた「たいせつなきみ」という絵本があります。「ウイミックス」という木で作られた小人の世界のお話しです。このウイミックスたちは、彫刻家のエリによって作られ、彼らは「金ぴかのお星さまシール」と「灰色のだめじるしシール」をもっていて、お互いにくっつけ合って暮らしていました。彼らはいつもお互いに比べ合っていたのです。主人公のパンチネロは何のとりえもなく、いつも失敗ばかりして、他のウイミックスたちから馬鹿にされ、ダメシールをいっぱい貼られて、落ち込んでいました。ところがある時、何のシールも貼られていない不思議なウイミックスに出会います。パンチネロは自分もそんなふうになりたいと思って、彫刻家のエリのもとを訪ねます。そこでエリは、「みんながどう思うと私はおまえを大切だと思っている」と伝えました。そして、「私の愛を信じたなら、シールなんてどうでもよくなる」と告げたのです。その言葉を信じた時、彼の体から「だめじるし」が一つ、地面に落ちました。

私たちも、人と比べて、金ぴかシールやダメシールを自分で貼っているということはないでしょうか。そんなことで一喜一憂しなくても、私たちを造られた大きな神様は、私たちのことを愛してくださっています。私たちのことを、かけがえのない「たいせつなきみ」として見ておられるのです。
では、私たちにはどれほどの価値があるというのでしょうか?それは、「神の御子イエス・キリストのいのち」に相当する位と言えます。神は、私たちを罪の奴隷から救い出すために、御子イエスの命を代価として支払ってくださいました。神様の目から見て、私たちには、それほどの、計り知ることのできない大きな価値がある、ということです。このことをぜひ覚えたいと思います。

この神様の愛を信じて、イエス様とともに歩んでまいりましょう。