主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

マタイ1:1-18、ローマ8:3 「人となられた神」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイの福音書1:21)

【礼拝メッセージ要旨】

時が満ちて、神の救いのご計画が実現する時を迎えます。救い主イエス・キリストは、「ひとりのみどりご」として生まれてきます。神はどうして、神の御子イエスを人として遣わされたのでしょうか。

1)イエス・キリストの誕生の背景
神は、ヨセフとマリアという婚約中の一組のカップルを選ばれました。田舎のごく普通の家庭に生まれ育った若者たちです。そして、まずマリアに、そのあとでヨセフに、それぞれ御使いを遣わして、聖霊の力によってマリアが男の子を身ごもることを知らせます。マリアの懐妊を知ったヨセフは、どれほど驚き、困惑しただろうかと思います。律法では、婚約中の不貞は赦されないものとされていました。ヨセフの中にはマリアへの疑いもあったでしょう。しかし彼は、彼女のことを思いやりました。「マリアをさらし者にしたくなかったので」(19) そうしてヨセフは、マリアを「ひそかに離縁すること」を決意します。ヨセフは「正しい人」でした。そのあと御使いが彼の夢に現れ、マリアが聖霊の力によって身ごもっていることを知らされて、「恐れずにマリアを妻として迎えなさい」と告げられます。彼は、信仰によってそれを受け入れます。そして、マリアを自分の妻として迎えて、生まれてきた子をイエスと名付けました。ヨセフの信仰と、神のご計画の中で彼の果たした役割の大きさを覚えます。もし彼が「マリアをひそかに去らせる」という決断をしなかったならば、神のご計画はそこでストップしていたかもしれません。御使いは、彼が決断をしたあとで現れました。それは、彼の信仰を試しているかのようにも思えます。ヨセフ以外に、彼のように相手を思いやれる男性はいかなったのでしょう。神は、そんな「正しい人」ヨセフを、救い主の父親として選ばれたのです。

2)人となられた神
こうしてイエスは、ヨセフとマリアの子どもとして生まれてきますが、このお方は一体どういうお方なのでしょうか。聖書からハッキリと分かることは、イエスは完全な神であり、同時に完全な人であるということです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)、「キリストは、神の御姿であられるのに~しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2:6,7) これは、神であるお方が人間としての限界を持つようになられた、ということを意味しています。
神が人となって来られたことは、神学的に「受肉」とも呼ばれます。「肉」とは、肉体のことだけでなくて人間性の全体を指す言葉です。永遠の神の御子であるお方が、罪以外のすべての人間性を取られたこと、これがイエスの誕生であったということです。無限の神であるお方が、わざわざ限界のある人となられたというのです。

3)なぜ人となって来られたのか?
では、神の御子イエスはなぜ、人としてこの世に来られたのでしょうか。その理由として聖書から分かることを3点ほど挙げたいと思います。
①一点目は、「人に神のことを知らせるために」ということです。
最初の人アダムが神に背いて以来、人は神との交わりから離れて、神を知らずに生きるようになってしまいました。そんな人間に、神はご自身のことを人となられたイエスの姿を通して知らせる、ということをなさいました。歴史上実在したイエスのお姿を見れば、私たちは神がどういうお方なのか知ることができるのです。

②二点目のことは、「人に生き方の模範を示すために」ということです。
イエスは、人々とともに生きて、彼らに教え、自ら愛を示されました。イエスが大事なこととして人々に教えたことは、「神を愛し、人を愛すること」でした。私たちには罪の性質(自己中心性)があるために、神を愛し、他者を愛することがなかなかできません。しかし、イエスのお姿を模範として、イエスならどうされるだろうかと祈り求めながら人生を歩めるようにされました。イエス様の姿を見つめながら、イエス様に似る者へと変えられていきたいと思います。

③そして三点目のことは、「人を罪から救うために」ということです。
神から離れて罪の奴隷となった私たち人間を罪から救い出すために、神が人となって私たちの世界に入ってくる必要があったということです。そのために、無限で永遠の神であるお方が、目に見える限界のある人となって来られました。では、神はどのようにして私たち人間を罪から救うということをされたでしょうか。「肉において罪を処罰されたのです」(ローマ8:3)罪は処罰されなければなりません。神は完全にきよいお方なので、罪汚れを受け入れることが出来ないからです。本来なら、罪を犯した者がその処罰を受ける必要があります。それでは誰も生きていられなくなります。そこで神がなされたことは、「完全な肉をもって、人の罪を処罰する」ということでした。「神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし」(同上) 人の罪を処罰し、人の罪をきよめるために、父なる神はご自分のひとり子を「肉」としてこの世に遣わしたというのです。イエスは、私たちの代わりに私たちの罪汚れをすべて引き受けて、本来私たちが受けなければならなかった、罪に対する神の刑罰を受けられました。それが、あの十字架の出来事です。イエス様は、私たちの罪のために、ご自身のからだを「いけにえ」としてささげてくださいました。歴史上たった一回限りなされた、神の救いのみわざです。神は、「それで良し、それで充分」とされました。このイエスを自分の救い主として信じ、心に迎え入れる人は、罪赦されて神の子とされる、という救いの道が開かれたのです。

そう考えると、イエス様は、十字架に向かうために人となって来られた(受肉された)とも言えるのではないでしょうか。ここに、私たちに示された神の大きな愛が現されています。このことをしっかりと心に留めたいと思います。