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マタイの福音書1:1-16 「神の救いのご計画」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイの福音書1:1)

【礼拝メッセージ要旨】

今日はアドベントに関連して、「イエス・キリストの系図」に目を留めて、ここに現わされている「神様の救いのご計画」ということについて思いを巡らしたいと思います。

1)「イエス・キリストの系図」について
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1) これは、イエスから遡ってアブラハムに至る「家系図」とも言えます。それはまた、イスラエル民族の歴史をも表わしています。

①アブラハムからダビデに至る14代(1~6節)
神はアブラハムを選び、カナンの地(のちのイスラエル)へ行くようにと召し出しました(BC2000年頃)。このアブラハムからイスラエル人が起こされていきます。アブラハムが100歳の時に息子のイサクが生まれ、イサクの息子のヤコブへ、そしてヤコブの12人の息子たちのうち4男のユダへと家系が受け継がれます。その後家族はヨセフに招かれてエジプトへ移住し、400年後モーセによってエジプトを脱出し(出エジプト)、再びカナンの地へ戻ってきます(BC1400年頃)。その後イスラエル人はカナンの地を征服し、そこで増え広がり、やがて王を求めるようになり、二人目の王としてユダ族のダビデが立てられます(BC1000年頃)。

②ダビデ王からバビロン捕囚に至る14代(6~11節)
ダビデの後継者ソロモンは知恵者として知られており、ダビデ~ソロモンの時代にイスラエルの繁栄の時を迎えます。しかし、やがてソロモンの後継者争いによってイスラエルは北イスラエルと南ユダの2つに分裂してしまいます。ここには、ダビデの王家を受け継いだ南ユダ王国の王たちの名が記されています。良い王も現れますが、彼らは次第に真の神を忘れ、他国の偶像の神々に心を惹かれ、神に従うよりも目に見える繁栄を追い求めるようになります。その結果、王も民も堕落して、神への信仰は形だけのものとなっていきました。そんな彼らに、神は何度も預言者を遣わしますが、彼らは一向に神の言葉に聞こうとはしませんでした。その結果、神の裁きとして、北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされ(BC720年頃)、やがて南ユダ王国もバビロニア帝国によって滅ぼされて、人々は遠いバビロンの町へ連れていかれました(バビロン捕囚、BC586年)。こうしてイスラエル人は、彼らが犯した罪によって国を失い、外国での生活を余儀なくされてしまうという、実に不名誉な歴史を刻むことになります。

③バビロン捕囚からイエス・キリストに至る14代(12~16節)
その後彼らは、異国の地でまことの神への信仰を回復し、守り続けていきました。そして、ペルシアの王によってエルサレムへの帰還が許されて、町と信仰生活を再建することになります(BC538年)。その後、ギリシア帝国による支配、そしてローマ帝国の支配を受けて、彼らは聖書に約束されているメシア(救い主)の到来を待ち望むようになります。そんな時代に、イエス・キリストがヨセフとマリアの子どもとして生まれました(BC4年頃)。

2)神の救いのご計画
では、この系図は何を物語っているのでしょうか。マタイはなぜ、この書の最初にこの系図を書き記したのでしょう。そこで次に、この系図から分かることについて考えてみたいと思います。2点ほど、挙げたいと思います。
一つ目のことは、「イエス・キリストの誕生は、神が昔からご計画されていたことであった」ということです。実は、神様が人をその罪から救うという「ご計画」は、アブラハム以前から示されていたことでした(創世記3:15参照)。人が神に背いた時から、神はすでにその救いのご計画を用意しておられたのです。そうして、神はやがてアブラハムを選び、イスラエル民族を起こして、彼らの歴史を通して人類の救いのご計画を進めていかれました。その歴史の中で、神は約束を与えておられます(「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3、アブラハム契約)、「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。」(サムエル記Ⅱ7:12、ダビデ契約)、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。」(イザヤ9:6)など))そして、時が満ちて、神は救い主イエス・キリストをお遣わしになりました。イエス・キリストの誕生は、単なる神の思い付きによってなされたことでもなく、歴史上の偶然の成り行きによって出てきたことでもありません。全能の神様が、その昔から、愛をもってご計画されていたことでした。

3)人の弱さを通して
二つ目のことは、「神の救いのご計画は、人の弱さを通してなされていった」ということです。この系図に名が刻まれている人たちは、さぞかし立派な人たちかというと決してそうではありません。むしろ、多くの人たちが何らかの「弱さ」を抱えていました。例えば、「ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み」(3)、「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」(6)は、ユダやダビデの罪の出来事を物語っています。また、「バビロン捕囚」も、イスラエルの罪の結果もたらされた不名誉な歴史と言えます。そうした「汚点」と思える出来事も、聖書は包み隠さずそのまま記録しています。そして、そうした人の弱さも、この救い主の系図の中に入れられているのです。実に驚くべきことです。そして、その先に、彼らの子孫として救い主イエス・キリストが生まれてきます。ここに、神がなされた罪の赦しと、回復の希望が表わされています。
そうすると、この系図は私たちの人生を映し出している、と言えるのではないでしょうか。この失敗だらけのイスラエルの歴史は、私たち一人ひとりの人生をそのまま表わしていると思います。私たちの人生にも、神様のあわれみと恵みが豊かに注がれていて、その中にイエス様がいてくださるのです。

どんな過去があったとしても、何度失敗しても、神様は、救い主イエス・キリストによって私たちを赦し、私たちの人生を祝福へと変えてくださいます。この系図には、私たちへのそんな励ましのメッセージが込められているように思います。この神様のあわれみと愛を覚えて、感謝をおささげしましょう。