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ヨハネの手紙第一3:1-10 「神の子どもとして」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」(ヨハネの手紙第一3:1)
【礼拝メッセージ要旨】
今日の個所でヨハネは、「神の子ども」とされた者としてふさわしく生きるようにと教えています。それはどういうことなのでしょうか。
1)神の子どもとされるとは?
「私たちが神の子どもとされるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」(1) 神は、私たちを「子ども」として迎え入れてくださいました。それはちょうど「親子関係」に例えられます。子どもとして親子の関係に入れられるということは、本当に素晴らしいことです。「親子の深い絆」は、どんなに年をとっても変わることはありませんね。そのように、父なる神は、神から離れてさまよっていた私たちをご自身との関係に迎え入れたいと願われて、神の御子を遣わしてくださいました。私たちはこのイエスを心にお迎えして、神との関係に入れていただきました。それが「神の子どもとされる」ということです。まさに、「親子の関係」に入れられることです。それは、神のあわれみと大きな愛があったからこそなされたことでした。それは「特権」だというのです(ヨハネ1:12)。その「特権」をただで受け取りなさいと、神はすべての人の前に差し出しておられます。そのために必要なことはただ一つ、イエスを自分の救い主として心にお迎えすることです。
2)成長することが期待されている
神の子どもとされたものは、成長することが期待されています。イエスを信じて、クリスチャンとして新しく生まれて、そこからまた新たな人生がスタートします。赤ちゃんがお乳を飲んで少しずつ成長していくように、私たちも「みことばの乳」をいただいて、教えられ、取り扱われながら、時に失敗をし、悔い改めて、霊的に成長していくのです。「私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。」(2)私たちの目指すべきゴールはイエス様のお姿です。クリスチャンは、イエスの姿を模範として人生を歩む者とされています。そして、イエスに似る者へと少しずつ変えられていくのです。成長の度合いは一人ひとり違います。それでも、イエスに信頼しながら、イエスに似る者へと変えられていくように成長を目指していきたいと思います。
3)神の子どもとしてふさわしく生きる
では、「神の子どもとされた者として成長する」ために、私たちはどのように歩めばいいのでしょうか。ヨハネはそのための具体的な勧めをしています。2つのことに目を留めたいと思います。
①清められ続けること
一つ目のことは、「自分自身を清め続けていく」ということです。「キリストに望みを置いている者は皆、~自分を清くします」(3) イエスを信じても、私たちの内にはまだ罪の性質が残されています。この地上で生きている限り、自分の中にある罪の性質との闘いがあるというのです。それでもイエスと聖霊の助けをいただいて、罪との戦いに勝利させていただくのがクリスチャン人生です。そのために、罪の誘惑を退けて、罪から離れることを求め続け、実際に行動していくことが必要です。罪に誘惑されないために、自分の中に汚れがないか点検し、もしそれに気づいたら良くないものを手放し、それから離れることを求めていきたいと思います。そして、それをし続けていく(清め続けていく)ことです。このことは、神学用語で「聖化の歩み」と呼ばれます。「聖」という言葉には、「分離する」という意味があります。罪や汚れから分離しているということです。神の子どもとされた者も、自分を汚す一切のものから自分自身を分離するように求められているのです。地上で生かされている間、イエスの姿を見つめながら、自分を清くし続けていくこと、そして、聖霊の助けによってイエスの姿に少しずつ変えられていくこと、これが「聖化の歩み」です。このことを覚えて、自分自身を清くし続けることを、追い求めてまいりましょう。
②罪を犯し続けないこと
もう一つのことは、「罪を犯し続けない」ということです。「キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。」(6) 「罪を犯しません」というのは、「習慣的に罪を犯し続けることがない」ということを意味しています。絶対に罪を犯してはいけない、ということではありません。神の子どもとされても、私たちは依然として弱さを持っています。失敗してしまうことがあるのはやむを得ないことです。だからと言って、同じ失敗を何度も繰り返していいということではありません。失敗したら、神の前に正直に告白し、赦していただくことです。そして、同じ失敗を繰り返さないように心掛け、努力すべきだと思います。罪を犯し続けないことです。
聖書が語っている「罪」とは、造り主である神に背いて、本来の行くべき道から外れて生きること(的外れな生き方)です。それは、「自己中心性」とも言えると思います。自分自身を清めていくということは、私たちの自己中心性が神によって取り扱われていくことです。それは、自分にとっては、痛いと思えることであり、抵抗を感じることかもしれません。なぜならば、自己中心は自分の欲望を満たすことであり、とても心地のよいことだからです。しかし神は、私たちの自己中心性を打ち砕こうとされます。その罪(自己中心性)を手放して、一切を神に委ねていくこと、そしてイエスのように「愛の人」に変えられていくことを追い求めること、これが「神の子どもとされた者としてふさわしく生きる」、ということではないでしょうか。
神の子どもとされるということは本当に素晴らしいことです。私たちに注がれたこの神のあわれみと愛を覚えて、心からの感謝をおささげしましょう。神は、私たちが神の子どもとして、イエスの姿に似る者とへと成長することを期待しておられます。神の子どもとされたものとして、イエスを見上げながら、聖霊の助けをいただいて、自分を清め続け、罪との戦いに勝利してまいりましょう。