主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

ヨハネの手紙第一2:3-6 「イエスが歩まれたように」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。」(ヨハネの手紙第一2:6)

【礼拝メッセージ要旨】

私たちが光の中を歩み続け、罪を犯さないようになるためにどうすればいいのでしょうか?今日の個所でヨハネは、「イエスが歩まれたように歩みなさい」と勧めています。3つの点に目を留めながら見ていきましょう。

1)神を知ること
一つ目のことは、「神を知る」ということについてです。ヨハネは、「もし私たちが神の命令を守っているなら、自分が神を知っていることが分かり」、同時に「神を知っていると言いながらその命令を守っていない人は偽り者である」と言っています(3,4節)。神を知っていることと神の命令を守ることは一体となっていて、どちらか片方だけということはあり得ないということです。「神を知っている」というのは、ただ知識として知っている、ということではありません。「神を知っている」とは、その人が神様との個人的な関係を持っていることを意味しています。イエスを信じる者は「神の子とされる」と聖書は語っています。私たちの中にある罪のゆえに離れていた神様との関係が修復され、神様に受け入れられて、親子の関係のように深いつながり、愛の関係に入れられるのです。それが「神との交わり」です。神様との深い交わりの中で生かされていること、それがどんなにすばらしいことであるかを今一度確認したいと思います。

2)神の命令を守るということ
2つ目のことは、「神の命令を守る」ということです。神の命令を守っているなら神を知っている、そして神を知っているなら、神の命令を守るはずだというのです。では、「神の命令を守る」とは、具体的にどういうことを言っているのでしょうか?イエスは、律法はたった2つに要約されると教えられました。「心を尽くして神を愛すること」と「自分自身のように隣人を愛すること」です。「神の命令を守る」とは、この2つのことを守り行うことと言えます。「心を尽くして神を愛すること」はできる、と思えるかもしれません。しかし、「自分自身のように隣人を愛すること」は簡単なことではないように思います。遠くにいる他人に同情を寄せることはできても、近くにいて自分のことを理解してくれない人や利害関係の対立する人のことは愛せない、ということもあるかもしれません。今の国際情勢も、まさにその現実を物語っています。「対立」、「憎しみ」、「争い」、「分断」、「報復」、そうした言葉が飛び交っています。とても悲しいことです。イエス様は実に難しいことを求めておられるようにも思われます。私たちに対する大きなチャレンジです。それでも、本当に神を知っているなら(神との交わりの中にあるのなら)、神の命令を守る者とされるのだとヨハネは語っています。

3)イエスが歩まれたように
では、そのために私たちはどうすればいいのでしょうか?それが今日確認したい3つ目のこと、「イエスが歩まれたように歩む」ということです。「神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。」(6)神との交わりの中にあるならば、その人はイエスが歩まれたように歩むべきだというのです。「イエスが歩まれたように歩む」とは、どのように歩むことなのでしょうか?

私たちには弱さがあって、なかなか人を愛せない現実があります。そんな私たちのために、神は神のひとり子イエスを遣わしてくださいました。完全に聖い神である方が、ご自身の血を流されて、私たちの罪の代価を代わりに支払ってくださったのです。また、イエスは私たちの模範ともなられました。「このように人生を歩んで行きなさい」と模範を示してくださいました。イエスは、人となって私たちと同じように生きて、その生きざまを見せてくださいました。病人や老人、子供たち、罪人と呼ばれて人々から蔑まれていた人たちに積極的に関わり、寄り添い、癒し、愛を示されました。また、12人の弟子たちを選び、彼らと3年間生活を共にしました。それぞれに弱さを抱えていた弟子たちを愛し、忍耐強く関わり、ご自身の生きざまを見せていきました。イエスはやがてユダに裏切られ、ペテロからは「あの人を知らない」と言われ、復活されてからもトマスから疑われてしまいます。それでも決して彼らを見捨てず、彼らを信じ、どこまでも愛を示されたのです。
イエスが十字架にかけられる前の晩、イエスは弟子たちの足を洗いました。このあと彼らから裏切られ、見捨てられると分かっていてのことです。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:15) イエスは彼らに自ら模範を示されました。

このイエスの姿にならうこと、イエスの姿を模範として生きること、それが「イエスが歩まれたように歩む」ということではないでしょうか。イエス様は、私たちがイエス様の姿に似るように、少しでも変えられていくことを願っておられます。そのために一つ、私たちにできること(心掛けたいこと)があります。それは、「こんな時イエス様ならどうされるだろうか?」と考えることです。自分にはイエス様のようにはできないと思えることもあるかもしれません。イエス様と同じようにはなれない自分の姿に気づかされます。それでも、少しでもイエス様の姿にならえるように一歩前へ踏み出してみたいと思うのです。

みことばに励まされ、私たちのうちに住んでくださる聖霊の助けをいただきながら、イエス様が歩まれたように、共に歩んでまいりましょう。