主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

使徒の働き22:1-24 「キリストの証人として」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。」(使徒の働き22:15)

【礼拝メッセージ要旨】

その後パウロは、エルサレムの民衆の前で証しをする機会を得ます。この出来事から、「証し」をすることについて考えてみたいと思います。

1)パウロの証し
ユダヤ人クリスチャンたちの誤解が解けたと思いきや、今度はアジアから来たユダヤ人たちが神殿にいたパウロを見つけて捕らえて、町は混乱状態に陥ります。彼は駆け付けたローマ軍の千人隊長により保護されて、集まったエルサレムの民衆の前で証しをする機会が与えられました。パウロはまず、以前の自分はどうであったのか話し始めます。「今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした」(3)彼は生粋のユダヤ人として生まれ、誰よりも熱心に神に仕え、それゆえにクリスチャンたちを迫害してきたと言っています。そして、そんな自分がある時イエスに出会って変えられたと、証ししています。クリスチャンたちを捕縛するためにダマスコに向かう途中、イエスに出会って回心した時の出来事を自分自身の体験として語っています。神はアナニアを通して、パウロに「キリストの証人となる」という使命を与えました。このことばを受け入れて、彼はバプテスマを受け、今度はイエスのことを証しし、宣べ伝える者へと変えられました。その後エルサレムで、パウロの夢の中にイエスが現われます。イエスは、「急いでエルサレムを離れるように」(18)と命じます。「人々はあなたの証しを受け入れないから」(18)というのです。そして、「わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす」(21)と、より具体的な使命を与えました。
この証しを聞いていたエルサレムの民衆は、パウロに反発します。彼の証しを受け入れられずに、話の途中で怒り出してしまいます。パウロはローマ軍に保護されて、この件でこのあと何回か裁判を受けることになります。

2)「証し」とは
このように、パウロは、エルサレムの民衆に対して、自分がイエスに出会って回心したこと、そして新たな使命を受けたことを証ししました。次に、この出来事から、「証しをする」ということについて少し考えてみたいと思います。3つの点に目を留めてみたいと思います。

まず一点目のことは、「証しとは自分が神から受けた恵みを伝えること」だということです。パウロは、自分が見たこと、聞いたこと、自分の身に起こったことをそのまま語りました。彼は、かつてイエスを憎み、迫害する者であった自分にイエスが語り掛け、受け入れてくださったことを、驚きと、感謝と、喜びをもって受け止めました。「こんな自分をも、神は愛し、受け入れてくださった」ということです。その神の恵みが、彼の心を満たしました。そして、自分が受けたその神の恵みについて、エルサレムの民衆に熱く語ったのです。これがパウロの「証し」でした。そのように、「証しをする」とは、神が私に何をしてくださったのか、そして自分はどのようにそれを受け止め変えられたのか、自分が体験したことを自分の言葉で語ることです。
一方で、「証し」とは、必ずしも「イエス様を信じて、バラ色の人生に変えられました。」とか、「こんないいことがありました。」というようなことでありません。イエスを信じても、何か良いことがもたらされるとか、苦しいことからすぐに解放されるとは限りません。依然として、置かれている状況は変わらないこともあります。それでも、「神がこの私のことを覚えておられて、共にいてくださる」、「こんな私をも愛し、受け入れてくださっている」、そういう安心や希望が与えられること、それが何よりも大きな恵みと言えます。そうした恵みを誰かに伝えられたら、それば「証し」なのではないでしょうか。

3)「証し」は受け入れられないこともある
2点目のことは、「証しは受け入れられないこともある」ということです。エルサレムの民衆は、パウロの証しを受け入れることができませんでした。イエスが神であるはずがないという思い込みがあって、彼らの心は動きませんでした。一生懸命証しをしても、相手の心に響かない、届かない、それどころか逆に反発を抱かせてしまう、ということもあるのです。イエスはパウロに、「エルサレムを離れなさい。人々はあなたの証しを受け入れないから。」と告げました。受け入れてもらえない時は、そこを「離れる」、「引く」ことも必要だということです。証しをしたら、あとは主に委ねることです。

4)「キリストの証人となる」とは
3点目のことは、「キリストの証人となる」ということです。「あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。」(15) 神は、「あなたもキリストの証人となりなさい」と言っているように思います。では、「キリストの証人となる」とは、どういうことを言っているのでしょう。実際は、普段の生活の中で、ことばで証しできる機会はそう多くはないように思います。しかし、必ずしもことばで証しする必要はありません。私たちのキリスト者としての生き方や普段の生活そのものが、そのまま「無言の証し」になっていると思うのです。だからと言って、人目を気にして、「人に見せるために」信仰生活を送る必要はありません。私たちがクリスチャンとして神を喜んでいる姿、目に見えない神に希望を置いて生きている姿が、周りの人たちには自然の証しとなって映るのではないでしょうか。まず、自分自身が心から神を喜んで、信仰者として生きていくことです。それが、何よりの証しなのだと思います。そして、救われた喜びと感謝をもって、イエスが教えられたように「神を愛し、人を愛する」生き方を、普段の生活の中で大切にし、実践していきたいと思います。

パウロは、キリストの証人として異邦人へと遣わされました。私たちも、「キリストの証人」として今いるところに遣わされています。その置かれているところで、自分にできるやり方でイエス様を証ししてまいりましょう。