主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

使徒の働き21:17-26 「愛の配慮をもって」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」(Ⅰコリント19:9)

【礼拝メッセージ要旨】

パウロの一行はエルサレムに到着し、エルサレム教会のリーダーたちと挨拶を交わします。彼らもパウロについて心配なことがあったようです。この問題について、パウロはどのように対処したでしょうか。

1)エルサレムでの報告とパウロの悪いうわさ
パウロの一行は、エルサレム教会の兄弟たちに喜んで迎えられます。そして、教会の中心メンバーであったヤコブを訪ねて宣教の旅の報告をしました。
一方で、ヤコブたちは、パウロに関してあることを心配していました。それは、パウロについての「悪いうわさ」が広まっているということでした。「ユダヤ人クリスチャン」たちは、みな「律法」を大切にし、忠実に守り行っていました。ところがパウロは、外国に住むユダヤ人たちに律法に背くように教えている、というのです。この時から10年ほど前、エルサレムで異邦人への割礼を巡って議論が交わされました(エルサレム会議)。その時、「割礼を受けることは救いの条件ではない」ということが確認され、その決定を受けて、パウロは異邦人への宣教を大胆に行って、大勢の異邦人が信仰に入りました。しかしパウロは、ユダヤ人に対しては、律法を守る必要はないなどとは教えてはいませんでした。それでも、パウロのことを快く思わないユダヤ人たちが、根拠のない悪いうわさを流していたようです。そして、そのうわさを聞いたユダヤ人クリスチャンたちの中に、パウロのことを誤解し批判的に見る人たちがいたようです。

2)パウロへの助言とそれに従うパウロ
心配したヤコブたちは、パウロにある助言をします(23,24)。律法で定められている「きよめの儀式」にパウロも加わって、そのささげ物の費用をパウロが負担するという提案でした。パウロはその提案を受け入れて、4人の誓願者と一緒に身を清めて宮に入ります。律法のしきたりに従ったのです。

3)ユダヤ人クリスチャンたちの姿から学ぶこと
この出来事を通して、私たちが教えられることがあるように思います。ユダヤ人クリスチャンたちの姿とパウロの姿、それぞれの視点から考えてみたいと思います。
まず、パウロのことを誤解し、批判的に見ていたユダヤ人クリスチャンたちの姿です。彼らは、パウロのことを「いかがなものか」という目で見ていたようです。彼らにとって、律法を守り行うことは、何よりも大切なことでした。それは、「身についた習慣」となっていたはずです。そんな彼らが、福音を聞いて、イエスこそ聖書に預言されてきた救い主メシアであると信じて救われました。それでも、「身についたもの」は、なかなか変えることできなかったようです。彼らの中には、「律法を守り行わなければならない」(~ねばならない)という思いがあって、そこに固執していたのです。彼らは、パウロのことを正しく理解しようとはしませんでした。ただうわさを信じて、事実を確かめることなく、パウロは律法をないがしろにしていると決めつけていました。そして、自分たちの価値観でパウロをさばき、批判的に見ていたようです。そこに彼らの間違いがありました。

私たちも、彼らと同じようなことをしていることがあるかもしれません。例えば、あることについて「こうあるべき」と考えて、それにこだわって人にも要求してしまう、ということはないでしょうか?さらには、そうできない人のことをつい批判してしまう、ということもあるかもしれません。相手の立場を理解しようとせずに、一方的に自分の価値観を押し付けるようなことをしてはいないでしょうか?本当に気をつけなければならないことです。

4)パウロの姿に教えられること
パウロは、一部のユダヤ人クリスチャンたちから誤解され、批判の目を向けられました。それに対して彼はどう対処したでしょうか。パウロが取った態度を2つの点から見てみたいと思います。
まず彼は、自分を批判する人たちの言葉を受け止めました。自己弁護や反論はせずに、まず「相手の言葉をそのまま受け止め」たのです。イエスの教えた律法の本当の意味は、「神を愛すること」と「自分自身のように隣人を愛すること」でした。律法を守り行うその行為自体に意味があるのではありません。それを理解した上で、律法に固執する人々の立場を思いやったのです。そのように、相手の思いを受け止めて、なぜそう言っているのか理解しようと努力することは大切なことです。

次にパウロがしたことは、「折り合いをつける」ということでした。彼らとの間に、折り合いを見出そうと努めました。彼は、その必要はないにも関わらず、ヤコブたちの助言をあっさりと受け入れて、律法の清めの儀式に加わりました。パウロはこの時なぜ、それを受け入れたのでしょうか?自分が悪く思われないように、ということではありません。それは、ユダヤ人クリスチャンたちが「つまずかない」ための配慮からしたことでした。こんなことで彼らがパウロにつまずいて、信仰から離れてしまうことのないようにと、心から願ったのではないでしょうか。そのために、自分が譲れることは譲る、「譲歩する」という選択をしたのです。お互いに配慮し合って、譲歩できるところは譲歩する姿勢を示していくことは、人間関係においてとても大切なことです。だからと言って、譲ってはならないことまで譲る必要はありません。パウロは、譲れるところを譲歩したのであって、決して妥協したのではありません。「福音の核心」に関することは、決して曲げませんでした。

「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。」(Ⅰコリント9:19) ここに、パウロの信仰姿勢がよく現わされていると思います。彼は、一人でも多くの人が救われることを願って「ユダヤ人にはユダヤ人のように」なったのです。パウロは、「愛の配慮」を示すことの大切さを教え、自らそれを実践しました。私たちも、そんなパウロの姿勢にならいたいと思います。