主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

マルコの福音書10:13-22 「子どものように神の国を受け入れる」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)

【礼拝メッセージ要旨】

今日は、子ども祝福式に関連して、マルコ10章から、イエスのもとに連れて来られた子どもたちと、イエスのもとを訪ねた一人の青年の姿から学びたいと思います。

1)子どもたちを祝福するイエス
イエスの教えを聞こうと大勢の人々が集まっていた時、ある人々が子どもたちを連れて来ました。ところが、それを見たイエスの弟子たちは、彼らを叱りつけ、追い返そうとします。そんな弟子たちに対して、イエスは「憤って」言われました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。」(14) そうして、子どもたちを抱き上げて、彼らの上に手を置いて祝福されました。また、イエスはこうも言われました。「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」(15) この出来事を通して、イエスは、「子どものように神の国を受け入れなさい」と教えておられるように思います。これは、どういうことを言っているのでしょうか。このことを理解するために、次の出来事にも目を向けてみたいと思います。

2)イエスを訪ねた一人の青年
その後、イエスが道に出て行かれると、ある一人の青年が駆け寄って、どうすれば、「永遠のいのち」を自分のものとして得ることができるのかと尋ねました(17)。イエスは、まず律法の戒めを示しますが、その青年は、「そんなことは子供の頃からすべて守ってきました。」と答えます。彼はそれまで、ユダヤ人として神の戒めをすべて忠実に守り行ってきた、真面目な人であったようです。しかし彼は、「永遠のいのち」を受けているという実感を持てずにいたようです。イエスは、「あなたの持ち物をすべて売り払って、貧しい人たちに与えなさい。」と告げますが、彼は悲しみながらそこを立ち去ってしまいます。彼が多くの財産を持っていたからです。彼は、救いは自分の努力や行ないで得るものと考え、そこに固執していたようです。この人には、何が欠けていたのでしょうか。子どもたちを巡ってイエスが教えられたこと、「子どものように神の国を受け入れる」ということであったと思います。

3)神の国とは「受け入れる」もの
では、「子どものように神の国を受け入れる」とは、どういうことを言っているのでしょうか。2つの点から考えてみたいと思います。まず一つ目のことは、「神の国とは「受け入れる」もの」ということです。「神の国に入る」とは、イエス・キリストを自分の救い主として信じる信仰によって、神様との関係に入れていただくことです。そして、その神の国は、「受け入れるもの」であって、決して「自分の努力や行ないによって得るもの」ではありません。なぜならば、「救い」は、神様の恵みによって無条件で与えられるものだからです。私たちは、それを感謝して受け取ればいいのです。「救い」とは、神がすべての人に差し出している恵みを素直に「受け取る」こと、イエス・キリストの十字架の救いを、自分のものとして心に受け入れることなのです。

4)「子どものように」受け入れること
では、私たちはその救いの恵みをどのように受け入れることができるでしょうか。それは、「「子どものように」受け入れる」ということです。これが、2つ目のこととして確認したいことです。「子どものように」とは、どういうことを言っているのでしょう?これと対照的なのが、あの青年の姿でした。彼は、それこそ子供の頃から親の言いつけをしっかりと守って、神の戒めから少しもはみ出さない生き方をしてきたようです。しかし、彼の中には、どこか「自分にはできる」、というような思いがあったのではないでしょうか。また、彼はすべてを持っていました。能力も、富も、名声も、おそらく社会的な立場も、人が手に入れたいと願うものをすべて持っていたと思います。そんな、自分に与えられているものを心の拠り所として、より頼んでいたのかもしれません。それでも、彼の心の中には、「神のものとされている」という確信がなかったようです。
それに対して、あの連れて来られた「子どもたち」はどうでしょう?何も持っていません。自分では何もできません。自分は小さくて、弱くて、無力なものだと分かっています。だからこそ、必死で親にすがりつきます。「子どものような者」とは、そういう人のことを指していると思います。自分の小ささ、弱さ、無力さを自覚している人です。自分の中には、頼れるもの、誇れるものは何もない。そのことが本当に分かってくる時に、一切を全能の神様に委ねることができるということです。そうした人こそ、神の国を受け入れることができるのだと、イエスは言われたのではないでしょうか。

「土の器」というワーシップソングがあります。自分は、まるで欠けだらけ、ヒビだらけの壊れやすい「土の器」のようです、と告白しています。「それでも、こんな弱い私を、神様はそのままで愛してくださいます。ああ主よ、感謝します。どうぞこの私を用いてください。」そんなすてきな賛美です。本当にその通りだなと思います。私たちは、もろい者であり、傷つきやすい者です。それでも、そんな弱い私たちを、神様は、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。大切な存在だよ。」と言って、愛してくださいました。この神様の愛を信じて、すべてをゆだねたいと思います。

「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3) 「心の貧しい者」は幸いだと、イエスは言われました。「心の貧しい者」とは、自分が弱い者であり、無力なものであることを知っている人です。自分の中には誇れるようなものは何もない、と分かっている人です。そして、そんな小さな私のことを神様は愛し、受け入れてくださると信じて、神様により頼む人のことです。そういう人は、本当に「幸い」なのだというのです。その人は、神様との関係に入られるからです。「天の御国はその人たちのものだからです」ここに、本当の幸いがあるのです。