主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

イザヤ書9:1-7 「救い主はみどりごとして」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。」(イザヤ書9:6)

【礼拝メッセージ要旨】

今日はアドベント第三週目として、預言者イザヤの預言のことばから、来るべき救い主の姿について、ご一緒に見ていきたいと思います。

1)イザヤの時代背景
紀元前700年頃、南ユダでは、国内的には信仰的に堕落し、対外的には東の大国アッシリアから侵略を受けるという苦しい状況にありました。そんな暗黒の時代に、神は預言者イザヤをアハズ王のもとに遣わして、「アッシリアを恐れずに主に信頼せよ」というメッセージを伝えます(7-12章)。このメッセージの中に、将来遣わされる「救い主」のことが予告されています。その「救い主」について、イザヤはどんなことを告げたしょうか。

2)イザヤの預言
①闇がなくなる
「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。」(1) この時、イスラエルの民は、罪の暗闇と、アッシリアの脅威に対する恐れや不安に覆われて、まさに「暗黒の闇」のような状況に置かれていました。しかし、そんな暗闇から解放されるというのです。「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。」(2) 「暗闇を照らす光」がもたらされる、ということです。実際には、その後北イスラエルも南ユダも大国に滅ぼされて、苦しい暗黒の時代を迎えることになります。そのイスラエルが、やがて大きな光に照らされて、それまで覆っていた暗闇から解放されていく、そんな預言のことばです。ここには、目の前に差し迫っているアッシリアの脅威からの守りだけでなく、さらに先の、将来に起こるイスラエルの回復のことと、さらには、イエス・キリストによってもたらされる「救い」のことが表されているようです。ここに記されている「大きな光」とは、まさにイエス様のことを指しています。イエス様は、私たちの中にある暗闇を照らし、そこから解放し、希望を与えてくださるお方です。

②「ひとりのみどりご」によって
「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。」(6) その暗闇からの解放は、「ひとりのみどりご」によってなされるというのです。来るべき救い主は、男の赤ん坊として生まれてくる、ということです。その後の歴史を知る私たちは、これはイエス様のことだと分かりますが、当時のイスラエルの人々にとっては、よく理解できないことであったかもしれません。

③その救い主はどんなお方なのか?
続いてイザヤは、その生まれてくるお方がどういうお方なのか告げています。「不思議な助言者」:「素晴らしいカウンセラー」として私たちを間違いのない正しい道へと導いてくださるお方です。「力ある神」:偉大な力を持った神ご自身であることを示しています。「永遠の父」:永遠に存在される神であられるお方が、私たちの父となってくださいます。「平和の君」:私たちに「真の平和」をもたらしてくださるお方です。イエス様は、十字架の死によって真の平和に至る道を開いてくださいました。神と人との間の平和を、そして人間同士の間の平和をもたらしてくださいます。さらにイザヤは、その救い主は、ダビデの子孫として生まれ、本当の王様となって王国を永遠に治める、と告げました(7)。この預言はそのとおりに実現します。イザヤの時代から700年後、ダビデの末裔の一人、ヨセフの子どもとしてイエスが誕生します。イザヤによって告げらされたこの「救い主」の姿は、そのままイエスの姿を現わしています。

3)「みどりご」として来られたことの意味
神はどうして、人類を罪から救う「救い主」を「ひとりのみどりご」としてお遣わしになる、ということをご計画されたのでしょうか?そこで最後に、救い主が「みどりご」として来られたことの意味について考えてみたいと思います。二つの点から確認したいと思います。

①私たちと同じようになるため
一つは、「私たちと同じようになられた」ということです。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を低くして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2:6,7) イエス様は、神ご自身であり、偉大な神の力を持つお方です。しかし、あえて限界のある人となって、しかも無力な赤ん坊として来てくださいました。それは、私たち人間と同じようになるためであった、というのです。私たちの罪を負うためには、ご自身が、弱さを持つ人間と同じようになることが必要であった、ということです。また、ご自身が人となることによって、私たちが受けるすべての苦しみを経験し、理解された、ということであったと思います。

②「神のひとり子」として
もう一つのことは、「神のひとり子が遣わされた」ということです。父なる神様にとって、イエス様はたったひとりの愛する子、「ひとり子」です。神は、そのひとり子を、人を罪から救うためにこの世界に遣わされました。そうする以外に人が救われる方法がなかったからです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3:16) 神は、それほどまでに私たちのことを愛してくださいました。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(7) 神は、それほど激しい熱意をもってイスラエルの民を愛し、憐れまれたのです。その熱い思いは、すべての人に注がれています。神は、罪の奴隷となって苦しんでいた私たち人間を、ねたむほどに憐れんでくださいました。そして、何としてでも私たちを救いたいと願われて、大切なひとり子をお遣わしになられたのです。

この神様の大きな愛と恵みを覚えて、心からの感謝をもって、今年もクリスマスをお迎えしたいと思います。