主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

ヨハネ1:1-14 「救い主は世の光として」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」(ヨハネ1:9)

【礼拝メッセージ要旨】

今日はアドベント第四週目として、「光として来られた救い主」ということに目を留めて、ヨハネの福音書1章から見ていきたいと思います。

1)ヨハネの福音書に描かれるクリスマス
新約聖書にある4つの福音書のうち、「クリスマス・ストーリー」が描かれているのは、マタイとルカだけです。しかしヨハネは、ほかの福音書にはない独特な表現の仕方で、イエス・キリストが人としてこの世に来られたことの意味を説明しています。では、その救い主として世に来られたイエス・キリストとは、どのようなお方なのでしょうか。今日の箇所から、「ことば」、「光」、「人」の3つのキーワードに目を留めながら見ていきたいと思います。

2)キリストは「ことば」と呼ばれるお方
1節には、人として来られる前のキリストの姿が現わされています。「初めにことばがあった」これは、「ことば」であるキリストは永遠の初めからおられたお方であって、造られたものではないということです。次に、「ことば神とともにあった」から、「ことば」と「神」には区別があることが分かります。それでいて、「ことばは神であった」とあります。つまり、「ことば」と呼ばれるキリストは、神とは区別されるお方でありながら、神ご自身である、ということになります。これは私たちの理解を越えていることです。しかし、聖書に記されているイエスの姿を見ると、確かにその通りであることが分かってきます。では、どうしてヨハネはキリストのことを「ことば」と記したのでしょうか。イエスがその生き様と言葉を通して「神を解き明かされた」(18)ことと関係があるように思われます。

3)キリストは「光」として来られた
ヨハネは続いて、この「ことば」であるイエス・キリストが、「光」として来られたことを告げています。イエス様はどんな意味で「光」と言えるのでしょうか。3点ほど挙げたいと思います。

①一つは、「闇に輝く光」ということです(5)。この「暗闇」とは、人の中にある「罪の暗闇」のことを指しています。また、孤独という暗闇、恐れや不安という暗闇もあります。こうした暗闇と言えるものは、造り主である神から離れていることによってもたらされたものです。神は、そんな人の世の「暗闇」に、「光」を与えてくださいました。それが、救い主イエス・キリストだというのです。イエスは、私たちの中にある罪の暗闇に気づかせてくださいます。この光は、今も消えることなく人の世に輝き続けています。そして、一人でも多くの人がこの光があることに気づいて、イエスのもとにくることを願っておられるのです。

②二つ目のことは、「闇に打ち勝つ光」ということです(5)。闇はキリストの光を消し去ることはできないことを告げています。イエス様は、十字架の死と復活によってサタンと罪の支配に勝利されました。

③そして三つ目のことは、「すべての人を照らす光」ということです(9)。太陽の光がすべての人に等しく降り注がれるように、キリストの光は暗闇の中に輝いて、すべての人を等しく照らしています。この光を見つけて自分のものとして受け入れる人は、罪の暗闇から救い出されます。神様は、罪の奴隷となって苦しんでいる人間を本当に憐れまれ、何とかして罪の暗闇から救い出したいと願われました。そのために、神のひとり子イエスを「まことの光」としてお遣わしになられたのです。神は、イエスを自分の救い主として信じて心に受け入れる人々に、「神の子どもとされる特権」をお与えになりました。「神の子どもとされる」とは、神との関係に入れられることを意味しています。それは、人の思いによってではなく、ただ神の恵みによってなされる救いのみわざです。

また、イエスは、私たちを導く光となってくださいました。私たちは、イエス様の姿を模範として、イエス様が歩まれたように人生を歩むことができます。この「光」として来られたイエス様に、信頼してお従いしてまいりましょう。

4)キリストは「人」として来られた
最後に、今日の3つ目のキーワードである「人」ということに目を留めたいと思います。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(14) 永遠の初めからおられた、神であるお方が、肉を取って「人」となられました。これは、あくまでも全能の神としてのご性質やご人格を持たれたままで、完全な人としての性質をも持たれた、ということを意味しています。イエス様は、人としての限界のある体を持たれて、30年間地上で人として生きて、痛みや苦しみや悲しみ、また飢え渇きも経験されました。イエス様は、完全な神であり、かつ完全な人となられたお方なのです。そして、ご自身のからだを、人の罪を贖うための「完全ないけにえ」としてささげてくださいました。「しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現われてくださいました。」(ヘブル9:26) イエス様が来られて、十字架でご自身をささげられたことによって、完全な罪の赦しがもたらされたのです。イエス様が人となって来られた(肉を取られた)ことには、その大きな意味があったと言えます。

永遠の初めからおられた神の御子であるお方が、「すべての人を照らすまことの光」としてこの世界に来てくださいました。この光は今も変わることなく人の世の暗闇の中に輝いて、すべての人を照らし続けています。神様は、「このまことの光のもとに来て救いを受けなさい」と、すべての人を招いておられます。クリスマスに現わされたこの大きな恵みと神様のご愛を覚えて、心からの感謝をおささげしましょう。