主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

使徒の働き7:17-37 「救い主はモーセのように」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「このモーセが、イスラエルの子らにこう言ったのです。『神は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。』」(使徒の働き7:37)

【礼拝メッセージ要旨】

今日はアドベント第二週目として、使徒の働き7章から、モーセの姿に現わされた救い主の姿について思いを巡らしたいと思います。

1)イスラエルの歴史を通して示された救い主の姿
神はアブラハムを選び、彼からイスラエル民族を起こされます。そのイスラエル民族の歴史を通して、神は将来お遣わしになる「救い主」がどのようなお方なのか、少しずつ示し始めて行かれました。今日はその中の一つ、モーセの姿に目を留めたいと思います。このモーセの姿から、救い主がどのようなお方なのか見えてきます。

2)モーセの生い立ちと働き
ステパノは、ユダヤ人指導者たちから捕らえられ、議会で訴えられた時に、神がイスラエル人の歴史を通してなされたことについて語りました。その中でモーセについて語っています。モーセとはどんな人物だったでしょうか。
①モーセの生まれ
イスラエル人がエジプトで奴隷のように虐げられていた時代に、モーセは誕生します。王の命令によってナイルの岸辺に置かれたモーセは王女に拾われ、エジプトの王宮で王子として育てられます。不思議な巡り合わせによってモーセは生き延びて、エジプトの王家で何不自由なく暮らすことになります。その背後には、神の守りがありました。
②同胞イスラエル人を顧みる
そんなにモーセに、彼が40歳の時、大きな人生の転機が訪れます。彼の心に、同胞イスラエル人を顧みる思いが起こされて、虐待された同胞を助けようとしてエジプト人を打ち殺してしまいます。しかし、モーセは彼らに拒まれて、遠い東の地ミディアンへと逃れます。そこで今度は、羊飼いとして40年間暮らすことになります。エジプトの王子から一転して、辺境の地の一介の羊飼いとなったのです。「もはや自分はエジプト人でもなければイスラエル人でもない」彼は、そんな深い悲しみと大きな心の傷を負っていたのではないでしょうか。人生をリセットするかのように、辛い過去を忘れようとして、遠いミディアンの地でひっそりと暮らしていたのかもしれません。
③神からの召命
しかし神様はそのモーセを用いられます。モーセが80歳の時、イスラエル人をエジプトから救い出すために、彼をエジプトに遣わされます。神は燃える芝の中から彼を呼び、大きな使命を与えました(34)。神は、イスラエル人から拒まれたモーセを彼らの解放者として遣わされたのです。それまでの波乱万丈な人生経験を経て、神は「その時」彼を必要とされた、ということではないでしょうか。モーセは神から受けた召しに応答し、あの辛い思い出のあるエジプトへと帰って行きました。神様は、思いがけない時に、私たちに大きな使命を与え、用いられるということもあるかもしれません。
④モーセの働き
その後モーセは、兄アロンとともにエジプトの王の前に出て行って王と対決し、イスラエルの民をエジプトから脱出させます(出エジプト)。そして、民を率いて荒野の旅へと出て行きました。その40年に渡る荒野の旅の間、民は何度も神に背きますが、その度にモーセは彼らを教え、励まし、導き続けます。そうしてカナンの地に入る手前で彼は召されて、120年の地上生涯を閉じます。モーセは召される前に、「神は、将来、私のような預言者をあなたがたに遣わす」(37)と言い残しました。この「私のような預言者」とは、イエスのことを指しています。このモーセの姿に救い主イエスの姿が示されている、というのです。

3) モーセのような救い主
では、イエスがモーセのような救い主だと、どうして言えるのでしょうか。最後に、モーセの姿に示された救い主の姿について確認をしたいと思います。4点ほど挙げたいと思います。

①まず一点目は、「モーセは水から引き上げられた」ということです。モーセがナイルの水の中ら引き上げられたように、イエスも幼子の頃、ヘロデ王の手から守られました。また、バプテスマのヨハネからバプテスマを受け、そして、十字架で贖いを成し遂げられて天に挙げられました。イエスも「引き上げられた方」であると言えます。

②二点目のことは、「モーセは神から遣わされた」ということです。神は、イスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出すためにモーセを遣わしました。イエスも、父なる神様から大きな使命を受けて、人の世へと遣わされました。無限の神であるお方が、限界のある無力な赤ん坊として来られて、ヨセフの息子として30年の人生経験を経て、救い主としての働きをなさいました。

③三点目のことは、「モーセは同胞から拒まれた」ということです。モーセは同胞イスラエル人から拒まれました。イエスも、ユダヤ人指導者たちから妬まれ、不当な裁判にかけられ、十字架で処刑されてしまいます。「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」(ヨハネ1:11) イエス様は民から受け入れられず、大きな苦しみを経験しました。それでも父なる神様は、この「見捨てられた」イエスによって、救いのみわざを成し遂げられました。「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」(ヘブル2:18) イエス様は、ご自分が経験された苦しみを通して、私たちの受ける苦しみをすべて分かってくださるお方です。

④そして四点目のことは、「モーセは荒野の旅を導いた」ということです。モーセは、イスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出し、40年に渡る荒野の旅を導きました。彼らがつぶやいても、決して見捨てることなく、忍耐強く彼らを導きました。イエス様も、私たちを罪の奴隷から救い出し、私たちの地上の人生の旅を導いてくださいます。「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

このように、モーセの姿には、来るべき救い主の姿が示されていました。そして、時が満ちて、神様が定められたふさわしい時に、イエス様が私たちの救い主として来てくださったのです。イエス様は、私たちを決して見捨てることなく、私たちと一緒にいて、御国に入るその時まで私たちの人生を導いてくださいます。このことを覚えて感謝をおささげしましょう。