主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

創世記3:1-24 「人の堕落と神のあわれみ」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。」(ローマ人への手紙5:18)

【礼拝メッセージ要旨】

今日は、アドベント第一週目として創世記3章から、人の堕落の物語に現わされた「神のあわれみ」についてご一緒に目を留めていきたいと思います。

1)人の堕落の物語
神に造られた最初の人アダムは、エデンの園に置かれ、やがて彼の妻としてエバが与えられました。エデンの園で彼らは、神との親しい交わりの中で豊かな恵みをいただいて何不自由なく幸せに暮らしていました。しかし、ある時エバが蛇に誘惑されて、神の命令に背いてしまいます。食べてはならないと命じられていた「善悪の知識の木」から取って食べてしまったのです。彼女は夫のアダムにも与え、二人とも背いてしまいます。その結果、彼らは自分たちが「裸」であることを知るようになりました。それは、神と人に対して「隠し事」を持つようになったことを意味していると思います。

2)罪の本質
そうして人は、神から隠れるようになりました。それまでの神との親しい交わりを喜べなくなり、むしろわずらわしく、恐ろしく感じるようになってきたようです。神は彼らを問い詰めます。「あなたが裸であることを誰が告げたのか。食べてはならないと命じていたあの木から食べたのか。」(11) しかし彼らは、自分は悪くないと言い訳をし、他者のせいにしました。正直に自分の非を認めることができなかったのです。この彼らの姿に「罪の本質」を見るように思います。それは「自己中心」ということです。残念ながら、私たちの中にもこの「罪の性質」が存在しています。「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に~」(ローマ5:12)パウロは、アダムが神に背いて堕落して以来、その後生まれてくるすべての人が罪の性質を持って生まれてくると語っています。それは私たちにも受け継がれていて、人は皆この罪に支配されて、罪の奴隷のようになっているというのです。そのために、人はこの世で苦しんでいると言えます。世の中で起こるいろんな出来事を見る時に、あるいは自分の姿を顧みる時に、罪の現実を認めざるを得ないのではないでしょうか。

3)神のさばきとあわれみ
神は、人を惑わしたヘビと、神の命令に背いた人に対してさばきを宣告しました。さらに神は、人をエデンの園から追い出してしまいます。神は随分厳しい処罰をされたようにも思えます。神はどんな思いでこのことをされたのでしょうか。怒って「もう二度と帰って来るな」という思いで追い出したということなのでしょうか?いいえ。神ご自身が本当に悲しみ、苦しみながら断腸の思いで、このことを決断されたのではないかと思うのです。
そこで次に、この出来事に現わされた「神のみ思い」について思いを向けてみたいと思います。この箇所をよく読むと、この厳しいと思えるさばきの宣告の中にも「神のあわれみ」が示されていることが分かります。3点、挙げたいと思います。

①一つは、「人を惑わすサタンは、「女の子孫」によって滅ぼされる」という約束です(15)。イエスが処女マリアによって生まれ、サタンに勝利することがここに暗示されています。

②二つ目のことは、「神が人に「皮の衣」を与えたこと」です(21)。神は、二人にさばきを宣告したのち、彼らに「皮の衣」を作って着せられました。「着せる」と訳された言葉には、「覆い隠す」という意味があります。つまり、「罪を覆う」ということです。そのために動物の皮が与えられました。人の罪が覆われ赦されるために、「血」が流され、「いのち」がささげられたのです。救い主イエスが、人の罪を負って一回限りの完全ないけにえとして、十字架でそのいのちをささげられたことが暗示されています。ここに、神様が人を罪から救うという神の救いのご計画が示されています。

③そして三つ目のことは、「「いのちの木」への道が守られた」ことです(24)。これは、人がふさわしくされて、その道を戻ってきて永遠のいのちを受けられるその時まで、神がその道を守られた、ということではないでしょうか。そして、やがて救い主が遣わされて、人が罪の赦しを受ける時に、永遠のいのちに至る道が開かれることを示しています。イエス様が十字架で息を引き取られた時に、エルサレムの神殿の幕が上から下に真っ二つに裂けた出来事は、いのちの木への道が開かれたことを物語っているように思います。

4)放蕩息子の父親の姿から
このように、人の堕落の物語の中にも、実は神の深いあわれみが示されていたことが分かります。ルカの福音書15章にある「放蕩息子のたとえ話」が思い起こされます。人をエデンから追放しなければならなかった神様の思いは、この放蕩息子の父親の姿に現わされているのではないかと思うのです。父親は、息子が家を出て行くのを力ずくで止めようとはしませんでした。たとえそうしたとしても、息子は本当の幸せが何か自分では気づけないと、分かっていたからではないでしょうか。父親は、愛する我が子が我に返って、自分のもとに帰ってくるのを心から願い、待ち続けたのだと思います。神に背いたアダムとエバは神のもとから離れ、罪の支配の中に生きるようになりました。そんな人間のことを、神様はどんなにか心配し、あわれんで見ておられたことでしょう。そして、何とかして人を罪の奴隷から救い出したいと願われて、救い主イエス様を遣わしてくださいました。その「救いのご計画」のことが、人が堕落した時からすでに示されていたのです。

今年もアドベントを迎えるにあたって、この出来事に現わされた神様の深いあわれみと愛を改めて心に留めたいと思います。この神様のあわれみは、私たち一人一人に向けられています。そして神様は、私たちのために救い主イエス様を送ってくださいました。この大きな恵みを覚えて、心からの感謝をおささげしたいと思います。