主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

使徒11:19-30 「新しい風が吹く」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(使徒の働き11:26)

【礼拝メッセージ要旨】

迫害の手を逃れて散らされた人たちによって、アンティオキアに最初の異邦人教会が誕生します。そこには、世界宣教の拡大につながる神の大きなご計画が秘められていました。

1)アンティオキアにて ~最初の異邦人教会の誕生~
ステパノへの迫害から始まって、エルサレムの外へと散らされていった人々は福音を宣べ伝えながら北上し、やがて500キロも離れたアンティオキアまでやってきます。彼らは最初ユダヤ人以外にはみことばを語りませんでしたが、やがてギリシア語を話すユダヤ人たちのある人たちが、ユダヤ教とは縁のないギリシア人にも語り掛け、福音を伝えることを試みました。異邦人と交わることに抵抗を感じながらも、異邦人の救いを願っての一大決心であったと思われます。その結果、アンティオキアの町で大勢の人がイエスを信じて救いに導かれました(21)。その中には、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教の神を信じていた異邦人もいれば、ユダヤ教に全く触れたことのない異邦人もいたと思います。様々な背景を持った人たちがそこに集められたのです。それまでにはなかったような全く新しい教会が、アンティオキアで誕生しました。アンティオキア教会は、「最初の異邦人教会」となります。

2)バルナバとサウロ
この知らせを聞いて、エルサレム教会はアンティオキアにキプロス生まれのバルナバを遣わします。「彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった」(24)彼の働きによって、アンティオキアでさらに多くの人々がイエスを信じて、信仰に入りました。さらに彼は、彼と一緒に働く協力者として、サウロに目を付けます。その時サウロは、生まれ故郷のタルソの町にいました。彼は、エルサレムではユダヤ人たちから命を狙われたために、生まれ故郷に逃れてきていたのですが、地元でも思うようには活躍できていなかったようです。サウロの経歴も、聖書知識も、そして信仰においても申し分のない、まさにアンティオキアにふさわしい働き人でした。バルナバはさっそくタルソに行って、サウロをアンティオキアに連れて来ます。そこで、サウロの賜物が豊かに花開くことになります。

「弟子たちは、アンティオキアで初めてキリスト者と呼ばれるようになった」(26) 彼らが熱心に教会生活を送る姿を見て、町の人たちは彼らのことを「キリスト者」(クリスチャン)と呼んだというのです。彼らはそれほど、町の人たちにとって「気になる存在」であったようです。使徒2:47にあったように、彼らが心を一つにして集まって神を賛美している姿、そしてお互いに愛をもって仕え合っている姿を、町の人々は好意を持って見ていたのではないでしょうか。私たちも、良い意味で、周りの人たちから見て「ちょっと気になる存在」となれたらいいなと思います。

3)「受ける教会」から「与える教会」へ
27節から30節には、アンティオキア教会がエルサレム教会を助けるために援助物資を届けたという出来事が記されています。その地方がひどいききんに見舞われた時、アンティオキアの教会はエルサレムの兄弟たちを助けるために救援の物を募って送ることを決議し、バルナバとサウロの手によって届けます。多くの霊的な祝福を受けてきた母教会を物資面で助けたのです。「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35) 私たちも、「与える者」、「与える教会」となりたいと思います。

4)アンティオキア教会が誕生したことの意味について
アンティオキア教会が誕生したことには、その後のキリスト教の進展にとって非常に大きな意味がありました。その意味について、3点ほど挙げてみたいと思います。
①まず第一に、「最初の異邦人教会となった」ということです。ユダヤの伝統に縛られない、開かれた、全く自由な雰囲気の教会が誕生しました。民族や国籍や人種を越えて、キリストによる救いがもたらされることが目に見える形で実現した大きな一歩となりました。
②二点目のことは、「サウロが大きく用いられた」ということです。サウロは、エルサレムでも、生まれ故郷でも、彼の賜物が発揮できずに埋もれていました。そんな彼がバルナバに招かれ、「しがらみ」のないアンティオキアに来て、彼の賜物が豊かに花開きました。そこで彼は大きく用いられたのです。
③そして三点目のことは、「世界宣教の拠点となった」ということです。アンティオキア教会は、やがてバルナバとサウロを世界宣教へと派遣することになります。特にパウロの働きを全面的に支援する教会となります。その大きな働きのためにアンティオキア教会は用いられました。

5)一人一人にふさわしい活躍の場がある
最後に、今日の箇所を通して教えられることを一つお話ししたいと思います。それは、「神様は、一人一人をふさわしいところへと導かれる」ということです。サウロは、アンティオキアの町に来て、まるで水を得た魚のように、生き生きと自由に活躍できました。サウロとアンティオキア教会がピッタリとマッチして、大きな働きがなされたのです。そのように神様は、一人一人をその人が輝ける、最もふさわしいところへと導いてくださいます。私たちにも、そうした「自分が輝ける場、自分の良さが花開ける場」が備えられていると思います。今私たちが置かれているところ、状況が、神様が導いてくださったふさわしいところと言えるのではないでしょうか。たとえ今置かれている状況が辛いなと思えることがあったとしても、ちょっと見方を変えるだけで、それまでとは違った新しい風が吹いてくるということもあると思います。

今置かれているところで自分に何ができるのか、神様の導きを祈り求めてまいりましょう。