主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

イザヤ書53:4-6, ヨハネ19:1-17 「痛みをになう救い主」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」(イザヤ書53:4)

【礼拝メッセージ要旨】

今日は、イザヤ53:4-6節のところから、「救い主は私たちの痛みをになってくださった」ということについて、ヨハネ19章にあるイエスの姿に重ねながらご一緒に思いを巡らしたいと思います。

1)痛みをになう救い主
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」(4) 「病を負う」とは、病(罪)をその人から持ち上げて、取り去ることを意味しています。聖書が語る「罪」とは、「病」のようなものだというのです。この罪という病は、人には直すことができません。神様にしか癒すことができないのです。また、「痛みをになう」とは、その病(罪)によってもたらされる悲しみや苦しみを代わりに「背負って」くださる、ということです。つまり、「救い主は、私たちの罪を取り去って、私たちに代わって苦しみを背負ってくださった」ということになります。
一方で、その彼のことを人々は、彼は自分の罪ために神に罰せられ、苦しめられているのだろうと見ていました(4)。なぜ彼が苦しみを受けているのか分かっていない人々の姿がここにあります。ヨハネ19章には、そんなイエスを取り巻く人々の姿が描かれています。総督ピラトはイエスに罪を認めませんでしたが、ユダヤ人指導者たちの圧力に屈して、ついにイエスに十字架刑の判決を下してしまいます。ユダヤ人たちには、イエスが自分の犯した罪のゆえに十字架につけられることになったとしか見えていませんでした。まさに、イザヤ書53:4にある人々の姿です。

2)私たちの罪のために
「しかし、彼は、私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(5) 「そむきの罪」とは「神の戒めに背くこと」を意味しています。「咎」は、「神に対するゆがんだ思い」を表わしています。そうした「神に対して背いていること」、「ゆがんだ思い」が私たちの中にもある(すべての人の中にある)、というのです。そして、その私たちの罪のゆえに、罪を犯した私たちではなくて、代わりの者(救い主)がその罰として「刺し通され」、「砕かれた」のだと言っています。それは、イエスの十字架の出来事に重なります。イエスを十字架に向かわせた人々の姿は、実は「あなたがたの姿」なのだと聖書は語っているように思います。私たちの中にもそういうものがある、と言えるのではないでしょうか。

3)神は救い主に私たちの咎を負わせた
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(6) 何と、神は私たちの罪・咎を一切、その救い主に代わりに負わせたというのです。本来、罪を犯した者がその責めを負って罰を受けなければなりません。しかし神は、そうはさせませんでした。それどころか、神に背いた人間をあわれんで、何とかして助けたいと願われました。神様にとって私たちは、いとおしい、とても大切な存在だからです。そのために神がなされたことが、神のひとり子を救い主としてこの世界に遣わして、そのひとり子に私たちの罪・咎をすべて負わせる、ということでした。
神にとって、イエスは「たった一人の愛する我が子」でした。その愛する我が子に人の罪を代わりに負わせたというのです。また、それを「負わされた」イエス様も、決して受け身ではなく、むしろ自ら望んで、私たちの罪を負ってくださったのです。

4)十字架を負ってゴルゴタに向かうイエス
ヨハネ19:17に、自分の十字架を負って、ゴルゴダに向かうイエスの姿があります。イエスは、その道を何十キロもある重たい十字架を背負わされて、一歩一歩歩んで行かれました。この時、イエス様はどんな思いで十字架を背負っておられたでしょうか。イエスを十字架につけた人々やイエスを見捨てた弟子たちのことも思い、彼らの赦しと救いを祈っておられたのではないでしょうか。このイエス様の姿は、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」と記されている姿、そのものを表しているように思います。
この、イエス様が背負われた十字架は、実は、私たちが負うべき十字架であったのではないでしょうか。イエス様は、その私たちが負うべき十字架を代わりに負ってくださいました。

5)私たちにもたらされたもの
「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(5) イエス様が私たちの罪を負ってくださったことによって、私たちに「平安」と「いやし」がもたらされました。離れていた神との関係が回復されて、罪という病からの完全ないやしがもたらされたのです。救い主イエス様を心にお迎えする時に、この平安といやしを自分のものとして受け取ることができるようにされました。

この、神様が私たちのためになしてくださった、十字架のみわざを覚えて、心からの感謝をおささげしましょう。