主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

イザヤ書53:7-10, ヨハネ19:18-30 「救い主は十字架に」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。」(イザヤ書53:10)

【礼拝メッセージ要旨】

今日は、イザヤ53:7-10節のところを中心に、十字架の上のイエスの姿に目を留めたいと思います。

1)イエスが受けた苦しみ
「彼は苦しんだが、口を開かない」(7)イエスは、不当な判決を言い渡されても一切自己弁護することなく、抵抗することもなく、十字架に向かわれ、その苦しみを一身に受けられました。「十字架刑」は、当時ローマ帝国で行われていた最も重い刑罰です。判決を受けた者は、生きたまま手足首を十字架に釘づけにされ、激痛と呼吸困難の苦しみに長時間耐えながら、最後は窒息死に至るという最も残酷で恐ろしい処刑方法でした。イエスは十字架の上で6時間に渡ってこの苦しみを受けました。

2)イエスをさげすむ人々
「だれが思ったことだろう」(8)十字架を遠巻きに眺めていた民衆のほとんどは、イエスが罪を犯したために神のさばきを受けていると見ていました。彼らは、イエスが誰のために苦しみを受けているのか全く気付いていませんでした。また、十字架の周りでは人々が勝手なことをしていました。ユダヤ人指導者たちは十字架に掲げられた「罪状書き」にクレームをつけ、ピラトはそれを突っぱねます。「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」これがそのまま残ります。その通り、イエスはユダヤ人の王として来られました。十字架の下では、ローマ兵たちがイエスの着物を分け合っていました。これも聖書に預言されていたことでした。

3)十字架の上でイエスは
では、この時イエス様は、十字架の上でどうされていたでしょうか?「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです」(ルカ23:34)何と、その想像を絶するような痛み苦しみの中で、自分を十字架につけた人々の赦しを願い、父なる神に祈っていたのです。そして、イエスの隣で十字架につけられていた犯罪人の一人がイエスを信じ、救いを求め、イエスは彼に救いを約束しました。またイエスは、十字架のそばで心配し見守っていた母マリヤを思いやり、彼女を愛する弟子に託します。ここに、人の思いをはるかに越えたイエスの大きな愛が現わされています。このイエスの大きな愛は、私たちにも同じように向けられています。十字架の出来事は、決して遠い昔の異国の地で起こった、自分に関係のない出来事ではありません。私たちもあの場にいて、イエスを十字架につけたと言えるのではないでしょうか。そして、イエス様はそんな私たちをあわれんでくださって、私たちの罪を代わりに負ってくださったのです。この大きな恵みを、感謝をもって受け止めたいと思います。

4)墓に葬られるイエス
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、富む者とともに葬られた」(9)この預言のことばの通り、普通は起こりえないようなことがイエスの十字架の一連の出来事として実現します。ユダヤ人の議員であったアリマタヤのヨセフがイエスの体を引き取って、指導者の一人ニコデモと一緒に自分が所有していた新しい墓に丁重に葬りました。十字架の上のイエスの姿が彼らの心を動かしたようです。

5)十字架は主のみこころであった
このようにして、イエスが来られる700年も前に預言者イザヤに示されていた預言のことばがイエスの十字架によって成就しました。この事実は何を物語っているのでしょうか。10節から2つのことを心に留めたいと思います。

①一つは、「十字架は主のみこころであった」ということです。
「彼を砕いて痛めることは主のみこころであった」人の罪を救い主イエスに代わりに負わせることは、主の深いみこころによるご計画であったということです。父なる神は、人を罪から救い出すために、神のひとり子を人の罪のためのいけにえとして自ら差し出されました。全く罪汚れのない神の御子が一回限りの完全ないけにえとしてささげられたのです。主イエスの十字架は、私たちを罪から救うために、その昔から神が深いみこころのうちにご計画されたことでした。

②そしてもう一つのことは、「イエスの十字架によって、主のみこころが成し遂げられた」ということです。
「主のみこころは彼によって成し遂げられる」罪のない無限のお方が、限界のある人となって、人の罪を負わされて父なる神のもとから離される、ということは、私たちには想像できないような大きな苦しみであったはずです。そのことを承知の上で、イエス様はこの世界に来てくださいました。そして、十字架で人の罪を代わりに負って、ご自身を完全ないけにえとしてささげてくださったのです。このことによって、私たちの罪の償い(贖い)が完全に成し遂げられました。イエス様は、十字架の上で息を引き取る間際に「完了した」と言われました(ヨハネ19:30)。まさに、「主のみこころが成し遂げられた」瞬間でした。

主イエスの十字架には、私たちに対する神様の大きな愛とあわれみが現わされています。 この計り知れない恵みを、自分のものとして心からの感謝をもって受け取りたいと思います。