主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

創世記25:1-11「アブラハムの終活」    齋藤牧師

【礼拝メッセージ要旨】

今日の箇所には、その後アブラハムが175歳で召されるまで、残りの人生をどのように締めくくっていったかが記されています。このところから、神様とともに歩む人生ということについて思いを向けてみたいと思います。

1)アブラハムが晩年に取り組んだこと
サラが亡くなった後、アブラハムはケトラと再婚し、6人の子どもたちが生まれ、彼らはアラブ人の祖先となっていきます。それは、主がアブラハムに告げていた「多くの国民の父(アブラハム)となる」という預言の成就でした。その後、アブラハムはイサクを跡継ぎとして、彼に全財産を与えます。その時、他の7人の子どもたちにも贈り物をし、彼らを東の方にやりイサクから遠ざけます。相続を巡って兄弟間で争いにならないように、元気なうちにこの問題に取り組んだのです。そうして神様の祝福のバトンをイサクにしっかりと渡しました。

2)主はアブラハムの人生を祝福された
神様は、そんなアブラハムの人生を祝福されます。「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた」(8)「平安な老年」とは、神様との関係において平安があったということを意味していると思います。彼は、人生の晩年においてもいつも神様のことを思い、神様との交わりを喜んでいたのでしょう。また、彼は175年の「長寿を全う」しました。75歳の時に召し出されてからちょうど100年間に渡って、神様に導かれ、神様とともに歩みました。そして最後は、「自分の民に加えられ」ました。これは、神様のもとに迎え入れられたということです。彼は、「地上では旅人であり寄留者であることを告白し」(ヘブル11:13)、「天の故郷にあこがれて」(同11:16)いました。その望み通り、神様が良しとされた時まで生きて、天に引き上げられたのです。このように、神様は、アブラハムという人を選び、その人生を導いて、大いに祝福されました。神様は、私たちにも目を留めてくださり、これまでの人生を導いてくださったのではないでしょうか。

3)アブラハムの子どもたちの祝福
アブラハムが召された時、イサクとイシュマエルが一緒に父を葬りました(9)。サラの女奴隷ハガルの子であったイシュマエルは、イサクが生まれた時にアブラハムから家を追われていました。しかし、父の死の知らせを聞いて数十年ぶりにイサクに会いに行って、二人で協力して父親の葬儀を執り行ったのです。イシュマエルの中からアブラハムとイサクに対するわだかまりが消えていたようです。アブラハムが生前にイシュマエルに対して愛と配慮を示したからだと思います。彼はこうした問題にも向き合って、しこりを残さないように取り組んだのではないでしょうか。そうして神様は、アブラハムの跡取りとなったイサクを祝福されました(11)。

4)神とともに歩む人生の幸い
最後に、アブラハムが歩んだ人生を通して、何をもって「幸せな人生」と言えるのか考えてみたいと思います。世の中一般に「幸せの条件」と言われることがあります。例えば、「富を手にすること」、「健康で長生きすること」、「地位や名誉を得ること」などです。しかし、それらを手にしたからと言って、必ずしもその人が幸せを実感できるとは限りません。多くの富を手にしても、その人よりも多く与えられている人を見て、自分はあの人よりも少ないと感じて満足できないということもあるかもしれません。幸せというものが人との比較で相対的な感覚だとしたら、幸せを実感することは難しいでしょう。人と比べて自分はプラスかマイナスかと考えて、一喜一憂することになるでしょう。アブラハムは、多くを与えられていましたが、常に神様を見ていました。そして、信仰によって神様とともに生きたのです。彼は、主が私とともにいてくださるということを実感していたと思います。このところに、「本当に幸せな人生」の秘訣があるように思います。神様がアブラハムと一緒にいてくださったように、神様は私たちとともにいてくださいます。「神様がいつもともにいてくださる」と実感できることは、本当に幸いなことです。
先週もご紹介した中村哲先生は、「天、共に在り」(主がともにおられる)と信じて、人生を歩まれました。35年間に渡る活動中、辛い出来事も数多く経験され、ご自身も73歳の道半ばにして凶弾に倒れましたが、きっと「我が人生に悔いなし」と言われるのだろうなと思います。先生の遺志はスタッフの方々に受け継がれ、その後も事業は続けられています。
私たちも、どんなことよりも「神様がともにいてくださる」ということを喜びとしたいと思います。そして、天の故郷を仰ぎ見ながら、与えられた人生を一生懸命に歩んでまいりましょう。