主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

創世記19:15-29「あわれみによる救い」    齋藤牧師

【礼拝メッセージ要旨】

やがて、二人の御使いはソドムに着いて、そこでロトに出会います。

1)ソドムの罪
ロトは、御使いたちを自宅に招いてもてなしをします。すると、町中の男たちがロトの家を取り囲んで旅人たちを出すようにと迫りました。男たちは男色のために旅人たちをもてあそぼうとしたのです。ソドムの町はそれほどまでに道徳的に堕落していました。ロトは、客人たちを守ろうとして代わりに自分の娘たちを差し出すことを申し出ます。ロトも、ソドムの罪の影響を受けていたようです。実は、私たちの心の中にも、ソドムのような悪い思い(罪の性質)が潜んでいます。本当に気を付けなければなりません。

2)主の警告とあわれみによる救い
御使いたちは、ロトに身内の者たちをこの町の外に連れ出すように促しますが、娘の婿たちは本気にせず逃げようとはしませんでした。ロト自身も町から出て行くことをためらいます。その時、御使いたちは彼と家族の手をつかんで町の外に置きました。彼らを強制的に滅びから救い出してくださいました。それは、主の一方的なあわれみによることでした。
このロトの姿は、私たちの姿でもあるように思います。神様に従いきれないでいたり、神様に喜ばれないことと分かっていても、手放せないでいることがあるかもしれません。聖書は、人は皆罪の奴隷になっていると言っています。しかし、神様は私たちをあわれんでくださり、救出の道を備えてくださいました。

3)いのちがけで逃げなさい
町の外に置かれたロトに御使いはこう告げます。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。」彼らはまだ助かったわけではありませんでした。さらに逃げる必要がありました。今度は自力で遠くに見える山へ逃げることを求められたのです。しかしロトは弱音を吐いて、近くにある小さな町に逃れさせてくださいと懇願します。ロトの厚かましいお願いは聞き入れられて、ロトと家族はツォアルの町まで逃げ込みます。その時、ソドムとゴモラの町に神のさばきが下されて、その地一帯は滅ぼされてしまいました。ロトの妻は御使いの警告に背いて後ろを振り返り、塩の柱となってしまいました。
29節に、ロトが救出されたことの背後にアブラハムのとりなしがあったことが記されています。主はアブラハムのとりなしを覚えておられました。私たちが救われたことにも、背後に誰かのとりなしの祈りがあったと思います。また、誰よりも、イエス様のとりなしによって今の自分があることを覚えたいと思います。

4)主のあわれみと私たちの責任
最後に、今日の箇所から教えられることとして2つのことを確認したいと思います。
①一つは、「神様のあわれみ」についてです。主は、町の中から出て行くことをためらっていたロトと家族の手をつかんで町の外へと救い出してくださいました。彼らを放ってはおけなかったのです。このところに、私たち人間に対する神様の愛とあわれみが表わされています。神様は、ロトを見るように私たちのことを見ておられるのではないでしょうか。人は生まれながらにして神様に背を向けて、罪の奴隷となって生きていると聖書は言っています。そのままでは永遠に神様から離れてしまいます。つまり、滅びに向かっているというのです。そんな私たちのことを神様はあわれみ、神のひとり子イエス様を人としてこの世界に遣わしてくださいました。私たちを滅びから救い出すために、救い主イエス様を送ってくださったのです。私たちは、神様のあわれみと恵みによって救っていただきました。この神様のあわれみは、私たち一人一人に注がれています。

②もう一つのことは、「私たちの責任」ということです。ロトは、主のあわれみによってソドムの町の外に置かれましたが、その先は自力で逃げることが求められました。つまり、自分の責任として私たちに求められていることがある、ということです。具体的には、自分の意志で罪から離れる(罪の誘惑を退ける)ことです。そのために「逃げる」ことが大切です。恥も外聞もプライドも未練も捨てて、とにかく罪の誘惑から逃げることです。時には、本当に「命がけで」逃げなければならないようなこともあるでしょう。では、私たちはどこへ逃れればいいのでしょうか?イエス様のもとに、です。主のみもとに身を寄せること、イエス様に思いを向けることです。イエス様のもとにいれば絶対安全です。

神様のあわれみが、尽きることなくいつも私たちに注がれていることを覚えて感謝をおささげしましょう。そして、イエス様から目を離さないで、罪への誘惑を退けてまいりたいと思います。