主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

創世記18:20-33「アブラハムのとりなし」    齋藤牧師

【礼拝メッセージ要旨】

アブラハムが神様の約束を信じて割礼を受けて後、ある日3人の人が彼のもとを訪ねてきます。

1)3人の訪問
この3人のうち一人は主でした。他の二人は御使いであったようです。アブラハムは、彼らを家に招いて、丁重にもてなしました。やがて彼らは、妻のサラが来年の今頃男の子を産むことを告げます。サラはこれを天幕の後ろで聞いていて心の中で笑いました。信じられなかったようです。しかし主は「サラはなぜ笑うのか」と指摘されて、サラは恐ろしくなります。おそらくこのことを通して、サラも神様の約束を信じたでしょう。彼らが訪ねてきたのはこのためでもあったと思います。アブラハムとサラが、信仰によって約束の子イサクの誕生を受け止める必要があった、ということです。

2)アブラハムのとりなし
やがてこの3人は、ソドムを見下ろす方へと向かいます。そしてアブラハムに、ソドムとゴモラの町をその罪の重さのゆえに滅ぼそうとしていることを知らせました。アブラハムはそのことを聞いて、主の前から立ち去れないでいました。そして、主にとりなしを始めます。もし、少数の正しい人がいるのなら、その人たちの故にその町を赦してほしいと願いました。正しいお方は、正しい者と悪い者を一緒に滅ぼすことなどしないはずです、と訴えています。
こうしたことばには、何とかしてその町の人々が滅びから救われてほしいと願うアブラハムの熱い思いが感じられます。ソドムの町には甥のロトも暮らしていました。彼と彼の家族の救いを願ったことでしょう。しかし、それだけではありません。彼は、正しい者たちの故にその町全部をお赦しくださいと願いました。本来さばきを受けて受けても仕方のないような悪い者たちのためにも祈ったのです。彼は必死になって、その町にいるすべての人たちのためにとりなしをしました。ここに、アブラハムの「とりなし手」としての姿がよく表されています。
このアブラハムの姿から、「とりなしの祈り」について教えられることとして、3つ挙げたいと思います。①一つ目のことは、「大胆に祈る」ということです。彼は、神様の正しさに訴えて、少数の正しい人たちのゆえに多くの罪人を赦してほしいと大胆に願いました。遠慮なく、厚かましい位にお願いしています。②二つ目のことは、「具体的に祈る」ということです。彼は、50人→45人→40人・・と、具体的に数字を挙げて祈りました。③三つ目のことは、「あきらめないで祈る」ということです。彼は、50人から始めて10人まで、6回も願い続けました。少しの可能性にも期待をかけて、主のあわれみを求めました。この「あきらめない姿勢」に倣いたいと思います。

3)とりなしの祈りは届いている
このアブラハムの必死のとりなしを、神様はすべて聞き入れてくださいました。忍耐強く彼の祈りを聞き続けられました。また、少数の正しい人たちのために、多くの罪人を赦そうと約束されました。ここに神様の深いあわれみを感じます。このあわれみはアブラハムの子孫として生まれてくるイエス様によって実現することになります。神様は、「一人の正しい人」によってすべての罪人を救うという道を開いてくださいました。
神様は、私たちのとりなしの祈りを聞いてくださいます。私たちの祈りは確実に神様に届いています。但し、必ずしもその祈りが願った通りにかなえられる、ということではありません。

4)神様はとりなし手を求めておられる
ところで、神様はどうしてアブラハムにソドムとゴモラへのさばきを知らせようとされたのでしょうか。それは、彼がとりなすことを期待されておられたからだと思います。神様は、このことを通してアブラハムに「とりなし手」としての大切な使命を与えようとされたと思うのです。神様は、「とりなし手」を求めておられます。やがて、モーセの時代には「祭司」がとりなし手となりました。そして、それはイエス様によって完全に成就することになります。イエス様は、神様と人との間を完全に取り持つお方(完全な祭司)となるために、人としてこの世界に来てくださいました。そして、ご自身を完全ないけにえとしてささげられました。イエス様の十字架上での祈り(ルカ23:34)を思い起こします。イエス様は今も、私たち人間のために、父なる神様にとりなしてくださっています。(ローマ8:34、ヘブル7:25)

私たちも、「とりなし手」となることが期待されています。私たちは、誰かのためにとりなす者として今いる所に置かれています。大胆に、具体的に、そしてあきらめないで祈り続けてまいりましょう。