主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

創世記15:1-6「義と認められるとは?」    齋藤牧師

【礼拝メッセージ要旨】

今日は、アブラハムが義と認められた出来事を通して、私たちの義認(義と認められること)について考えたいと思います。

1)アブラムの恐れ
14章には、ソドムの町から連れ去られたロトを取り戻すために東の国の王たちと戦ったアブラムの姿が描かれています。彼はその戦いに勝利を収め、ロトを取り戻し、周辺諸国の王たちから感謝されます。その後、主はアブラムに語り掛けます。
「アブラムよ。恐れるな。」この時アブラムは何かを恐れていました。あの王たちがまた攻めてくるのではないかと恐れていたのでしょう。また、彼には大きな心配事がありました。それは、「あなたの子孫を増やし祝福する」という主の約束のことでした。依然として彼には子が与えられていなかったため、本当にそうなるのだろうかという不安があったと思います。

2)主の励まし
そんなアブラムに主は再度みことばによる約束を与えられました。「あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」(4)さらに、別の方法で彼を励まされました。彼を外に連れ出して「さあ、天を見上げなさい」と言われて、夜空に輝く満天の星を見せたのでした。神様の創造のみわざです。山に登って雄大な景色を眺める時、海に沈む美しい夕日を見る時、本当に癒される思いがします。神様の大きさを覚え、自分がいかに小さな存在であるか思わされます。そうすると、自分の小さな悩みが吹っ飛ぶような思いにさせられます。アブラムも、満天の星を見せられて「主は生きておられる。主の約束は必ず実現する」と確信することができたのだと思います。アブラムは主を信じました。そして、主はそれを彼の義と認められました。(6)

3)義と認められるとは?
「義と認められる」とは、どういうことでしょうか?これはもともと法廷用語で、裁判官が「あなたには罪はない、無罪放免にする」と宣言することです。ここでは神様との関係において正しいとされることを意味しています。アブラムは何ゆえに義(正しい)とされたのでしょうか。彼の行ないが立派だったからではありません。「主を信じた」からです。神の約束の言葉を信じ、彼に語り掛けてくださった主に信頼したので、その信仰によって主は彼を義と認めてくださいました。彼の中には神様の目から見て正しいとされるようなものは一切なかったけれども正しいとされた、ということです。
これは、私たちにも関係のある大事なことです。神様は、イエス様を信じるすべての人を義と認めてくださいます(あなたには罪はない、としてくださいます。教理的に「義認」と呼ばれます)。これに関して、ローマ書から大切なことを3点確認したいと思います。

①義とされる根拠はキリストにある(私たちの中にはない)
ローマ3:23に「すべての人は罪を犯したので」とあります。私たちは皆、自己中心に生きている罪人です。本来、私たちの中には正しいと認められるようなものはありません。それでも神様は私たちを義(正しい)と認めてくださいます。その根拠はイエス様にあります。「キリスト・イエスの贖いのゆえに」、「値なしに」(3:24)、父なる神様は罪人である私たちを義と認めてくださるというのです。

②信仰により義と認められる
「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが私たちの考えです。」(3:28)人がどんなに立派な行ないをしたとしても、そのことによって神様がその人を正しいと認めることはありません。私たちがどんなに頑張っても神様の基準に合格することはできないからです。しかし、神様は、信仰によって私たちを正しいと認めてくださいます。
「信仰」とは何でしょうか。イエス様は、私の罪のために十字架で死んで、葬られ、三日目によみがえられ、今も生きて働いておられます。このことを「福音」(良い知らせ)と言います。信仰とは、この福音を聞いて、それを自分のものとして受け取ることです。そして、イエス様を自分の救い主として信じて、神様に信頼して生きることです。この信仰によって、神様は私たちを義と認めてくださいます。

③恵みによって義と認められる
「ただ、神の恵みにより~義と認められる」(3:24)聖書が言っている通り、私たちの中には大きな罪があります。私たちは義とされるに見合うようなものは何も持たない「何の働きもない者」(ローマ4:5)です。それでも神様は、キリストの義のゆえにあなたには罪はないとしてくださいます。明らかに有罪なのに、無罪放免と言っているようなものです。神様はどうしてそこまでしてくださるのでしょうか。それは、神様の恵みによることだからです。神様は、私たちを何とかして神様との正しい関係に招き入れたい、罪の奴隷から救い出したいと願われました。神様はそれほど私たちを愛しておられます。そのために、御子イエス様を人としてこの世界に遣わしてくださり、そのいのちを私たちのために差し出してくださったのです。これは神様の一方的なあわれみであり、恵みによることです。

人は、イエス様の十字架の贖いのゆえに、イエス様を信じる信仰により、神様の恵みによって義と認められます。このことを今一度確認して、感謝をおささげしましょう。