主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

Ⅰコリント1:18-25「十字架のことばは愚かでも」    齋藤牧師

【礼拝メッセージ要旨】

今日はこの箇所から、クリスチャンにとって忘れてはいけない大事なことを確認していきたいと思います。

1)コリント教会の問題
コリントの町は東西南北の要衝として栄えた港町でしたが、ギリシャ神話の女神を崇拝することがなされていて、町の人々の生活は道徳的に乱れたものとなっていました。そのコリントにパウロがやってきて福音を伝えてコリントの教会が建て上げられました。しかし、コリントの教会には大きな問題がありました。誰をリーダーとするかで派閥に分かれ、教会の中に争いがあったというんです。決して穏やかな話ではありませんが、ある意味、コリント教会は教会の現実の姿を現している正直な教会であったのかもしれません。

2)パウロが伝えたかったこと
パウロは、そんなコリント教会のことを聞いて、大変心配をしてこの手紙を書き送りました。この手紙の冒頭部分でパウロが一番伝えたかった事、それは「十字架のことば」(18)でした。コリント教会では、雄弁で素晴らしい説教をする人とか、人間的に魅力的な人をリーダーとして求めていたようです。しかしパウロは、「十字架のことばがむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです」(17)と言いました。これは、人間的な知恵や人を納得させるようなことばで人が救われるのではないと言っているように思います。「十字架のことば」こそが人を救うのだというのです。

3)十字架のことば
「十字架のことば」とは、イエス・キリストが犯罪人として十字架につけられて処刑された事実に基づいています。イエスは私たちの罪のために十字架で処刑され、墓に葬られ、三日目に死からよみがえれました。神であるお方が人の手によって十字架につけられて、そのキリストが信じる者たちを罪から救うのです。コリント教会の人たちはこの大事なことを忘れて、人間的な思いで、教会の目に見える繁栄だけを求めていたようにも思われます。
「十字架につけられたキリスト」それは、世の人々には愚かに思えることかもしれません。そんな無力な救い主など、普通は考えられないことです。当時のユダヤ人は目に見える力強い「しるし」(奇跡)を求め、ギリシヤ人は人を説得し納得させるような思想(人間的な「知恵」)を追求しました。そんな彼らにとって「十字架のことば」は、到底受け入れがたいものでした。それでもパウロは淡々と十字架のメッセージを語り続けました。そして、一人また一人と、救われる人たちが起こされていったのです。どうしてなのでしょうか。24節に、「召された者にとってはキリストは神の力、神の知恵なのです」とあります。「召す」ということは、神様がその人を召す(救いに招く)ということです。つまり、人が救われるのは、神様からの働きかけが先にあるということです。決して自分が求めて信じたから救われたということではありません。神様が一人一人に働きかけて救いに招いてくださいました。そしてその招き(福音)を受け取って人は救われるのです。この大事なことをぜひ心に留めたいと思います。

4)なぜ十字架なのか?
それにしても、神様はどうして神の御子イエス様を十字架につけるという方法で私たちを罪から救おうとされたのでしょうか。神様が人間のために大きな犠牲を払うようなやり方です。それは、無限の神様が限界のある人となって、私たちの中にある弱さを一切引き受ける以外に私たちを助ける方法がなかったからではないでしょうか。私たちの中にある「罪、汚れ」といった「汚いもの」を神様が引き受けてくださった、ということです。罪、汚れは必ず処理されなければなりません。そのために、罪、汚れの全くないお方が、私たちに代わって償いをしてくださいました。そのために支払われた償いの代価は「御子のいのち」です。イエス様は、「私のために」、「私に代わって」十字架についてくださいました。イエス様は、私たちの弱さ、愚かさを十字架で一切引き受けてくださいました。このことを今一度確認して、感謝をおささげしたいと思います。