主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

創世記2:1-3「第7日目の祝福」    齋藤牧師

【礼拝メッセージ要旨】

今日の箇所には、神様が天地創造の第7日目になされたことが記されています。この第7日目には、どんな意味があるのでしょうか。また、このことは、私たちとどんな関係があるのでしょうか。

1)第7日目の意味
神様は、第7日目に、すべてのわざを休まれて、その日を祝福し、その日を聖であるとされました。「休まれた」とは、創造のみわざをやめられた、ということです。「休む」とは、「安息」とも訳される言葉です。神様がわざを休まれたとは、造られた世界をご覧になって本当に喜んで満足されていることを表していると思います。
神様は、さらにこの日を祝福し、聖であるとされました。「聖」という言葉には、「分ける」とか「分離する」という意味があります。つまり、神様がこの日を他の6日間とは別なものとして特別に分けた、ということです。何のために分けたのでしょうか。その日を祝福するためにです。昨年、認定こども園こひつじの新園舎が完成しました。その時に、日を改めて落成式を執り行い、皆でお祝いしましたが、落成式の時をもって初めて、「完成した」という思いになれたように思います。神様が第7日目を特別に分けて祝福の時とされたのは、ご自身が造られたこの世界を祝福し、その完成を造られた者たちと共に喜びたいと願われたからではないでしょうか。特に、神のかたちに造られた人間と交わり、彼らを祝福したいと願われたのだと思います。

2)安息日の制定
では、神様が創造の第7日目を聖なる日とされて祝福されたことは、私たちとどんな関係があるのでしょうか。聖書の他の箇所から、2つのことを確認したいと思います。
まず一つ目のことは、「神様は、私たちに安息日を与えられた」ということです。出エジプト記20:8~11に、モーセの十戒の第4戒が記されています。ここに、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」とあります。「安息日」とは、この世界を造られた創造主なる神様を覚える時です。イスラエル人にとっては、エジプトから救い出されたことを覚えて感謝をささげる時でもあります。私たちクリスチャンにとっても、この戒めは大切なものとして生きています。私たちは、イエス様がよみがえられた日(日曜日)を安息日として、他の日と分けて礼拝の日としてささげています。私たちは、何のために毎週日曜日、教会に行くのでしょうか。天の神様にお会いし、一緒に礼拝をささげるためにです。奉仕をささげることや交わりをすること以上に、ただ、私を愛し、私を救ってくださった神様を礼拝したいという思いが何よりも大事だと思います。賛美をささげ、みことばに聴いて、祈りをささげる。そして、生ける神様から祝福をいただいて、新たに始まる一週間を歩みだしていく。それが礼拝の恵みであると思います。

3)神の安息への招き
二つ目のことは、「神様は、人々を神の安息に招いておられる」ということです。へブル4章には、今日の箇所に関連して、「神の安息に入る」ということがテーマとして語られています。「神の安息」とは、神様との正しい関係に入れられて、平安が与えられることです。4:1に「神の安息にはいるための約束はまだ残っている」とあります。これは、神の安息はまだ続いている、終わっていないということです。第7日目はまだ続いていて、神との平和な関係の中にまだ入ることができる、まだ時間的な猶予があると言っています。神様は、人々をご自身との関係の中に招いておられます。イエス様はこう言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)イエス様のもとに行くならば、本当の平安、やすらぎをいただくことができるのです。
神様は、創造の第7日目を祝福し、聖なる日とされました。それは、神のかたちに造られた私たち人間と交わり、祝福したいと願ってのことでした。この神様の愛と恵みを覚えて、感謝をおささげしましょう。