主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

使徒6:8-15,7:54-60 「天を見上げて」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」(ヘブル人への手紙12:2)

【礼拝メッセージ要旨】

今日は、最初の教会で使徒たちを支えるために選ばれた7人の執事の一人、ステパノの姿と彼の信仰に学びたいと思います。

1)ステパノの逮捕
ステパノは、「恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行って」いましたが、彼に対して、ある人々が議論を挑んできました。しかし彼らは、どうしてもステパノに対抗することができません。ステパノへの憎しみから、ついには民衆や指導者たちに働きかけて、彼を捕らえて最高法院に引き出して、彼を罪に定めて処刑しようと企てました。「彼の顔は御使いのように見えた」(15)不当な裁判の場でも、彼は毅然と立っていたようです。

ユダヤ人たちがステパノを訴えた理由として、「神殿」と「律法」のことがありました。彼らが大切にし、誇りとしていた神殿と、彼らが忠実に守り行っていると考えていた律法を、イエスはないがしろにしたと思えたからです。

2)ステパノの弁明
この訴えに対し、ステパノは堂々と弁明しています(7:2-53)。彼は、アブラハムから始まるイスラエル人の歴史と、その中で神が彼らにどのように関わってくださったのか、そして彼らはその神に対してどのように応えてきたのかを丁寧に語っています。そして、このイスラエル人の歴史をたどりながら、彼が訴えられた2つの点(神殿と律法)について弁明しました。

まず、「神殿」については、神が時代と空間を越えて自由自在に現われ、彼らに働きかけたことを示して、神は人の手で造られた神殿に住むことはないと語りました。ユダヤ人たちは、神は彼らの造った立派な神殿にお住まいになっておられると考え、ついには、神殿自体が神よりも大事なものであるかのようになっていったようです。そして、神を自分たちの手の中に収めることができるかのように、神殿の中に閉じ込めてしまっていたのです。私たちも、神様よりも神様によって与えられたものの方に心が囚われてしまうことがないように気を付けたいと思います。

また、「律法」については、イスラエルの歴史の中で、彼らが律法に従ってこなかったことを指摘しています。「あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません」(53) ちなみに、イエス様は、律法の本当の意味について教えられました。律法は、「神を愛すること」と、「自分自身のように人を愛すること」。この2つに要約されると教えられたのです。

3)ステパノの殉教
「人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりをした」(54)人々の憎しみと敵意が一斉にステパノに向けられます。しかし彼は、「じっと天を見つめて」いました。この状況にあっても全く動じることなく、彼の心は神に向けられていました。彼は、自分の身を悲しむのでもなく、命乞いをするのでもなく、人を恨むのでもなく、ただ、イエスを見つめていたのです。彼の心には平安がありました。

ついに彼らは怒りに燃えて、「神を冒涜している」という罪でステパノに死刑判決を言い渡します。彼らはステパノの主張を受け入れず、自分たちの間違いを認めることができませんでした。そして、強引にステパノを罪に定めてしまいました。ここに、人の中にある罪深さが現わされています。ステパノは、律法に従って「石打ちの刑」に処せられます。石を投げつけられ、痛みと苦しみの中で、彼は必死に祈っていました。「主イエスよ。私の霊をお受けください」(59) 彼はイエスに信頼し、すべてを委ねていました。そして最後に、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60)と祈りました。何と、自分を迫害する者たちのことを思い、彼らの赦しと救いを願い、祈ったのです。彼はまさに、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われたイエスの言葉を、身をもって実践しました。私たちも、そんな祈りがささげられたらなと思います。

彼は、どうしてそうできたのでしょうか。いつもイエスを見つめていたからです。天を見上げ、イエスを見つめ続けていたからこそ、彼の信仰は決してぶれなかったのです。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2) 神様は、「イエスから目を離さないでいなさい」と、私たちを励ましておられます。どんな困難の中に置かれても、イエス様を見つめ続けていたいと思います。

4)ステパノの死がもたらしたもの
ステパノの処刑の場に、「サウロ」という人物が証人の一人として立って見ていました。彼は、後の大伝道者となる、あのパウロのことです。彼は、ステパノの処刑の場にいて、彼の祈りのことばを聞いていたはずです。なぜ彼はこの状況で、迫害する者たちのために祈れるのかと思ったことでしょう。そんなステパノの姿が、サウロの心に強烈に焼き付いたのではないでしょうか。そうしてその後、神の不思議な導きによって、彼は回心へと導かれます。ステパノの死は、決して無駄には終わらなかったのです。ここにも、人の思いをはるかに越えた神様の深いご計画がありました。

私たちは、ステパノと同じようには生きられないでしょう。むしろ、自分たちの間違いを決して認めず、自分は正しいとして人のせいにしてしまう、あのユダヤ人指導者たちのようなものかもしれません。それでも、ステパノがしたように、どんな状況に置かれても、いつも主イエスを見つめ続けていたいと思います。そして、イエス様に信頼を置いて、神を愛し、人を愛する生き方を実践してまいりましょう。