主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

マルコの福音書12:1-12 「ぶどう園の農夫として」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。」(マルコ12:6)

【礼拝メッセージ要旨】

今日の箇所には、「ぶどう園と農夫たち」のたとえ話が描かれています。イエスは、このたとえを通して何を教えようとされたのでしょうか。

1)ぶどう園と農夫たちのたとえ
イエスがエルサレムの宮で「宮きよめ」をされたことを巡って、ユダヤ人の指導者たちは、「何の権威によってこれらのことをしているのか」と、イエスを問い詰めますが、逆にイエスに質問されて彼らは答えに窮してしまいます。そんな彼らにイエスはある「たとえ」を話されました。
ある人が「ぶどう園」を造りました。彼はぶどう園に「垣根を巡らし」、「踏み場を掘り」、「見張りやぐら」を建てたとあります。この主人は、ぶどう園の管理に必要なものをすべて備えていたことが分かります。そして彼は、このぶどう園を農夫たちに貸して旅に出ました。収穫の時期が来て、主人は彼らのところにご自分のしもべを遣わしますが、農夫たちは、そのしもべを打ちたたいて、何も持たせないで送り返してしまいます。さらに多くのしもべたちが遣わされますが、打ちたたかれ、殺されてしまいました。最後に、主人の「愛する息子」が彼らのところに遣わされますが、彼らはその息子をも捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨ててしまいました。そうすると、主人は怒って、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう、とイエスは言われ、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。」(10、詩篇118:22)このことばを示されました。

2)このたとえの意味
ここに登場する人物や出来事は、イスラエルでなされてきたことを表しています。ぶどう園を造った「主人」とは、父なる神のことです。「ぶどう園」は、イスラエルのことを意味しています。神は、それまでの長い歴史の中でイスラエルを愛し、あわれみ、忍耐をもって彼らを導いて来られました。まさに、主人が丹精を込めて造ったぶどう園のようなものです。神は、イスラエルから多くの収穫を受けることを期待されました。そのために、ぶどう園の管理を農夫たちに任せました。「農夫たち」とは、イスラエルの指導者たちのことを指しています。しかし彼らは、ぶどう園の収穫を神にお返しすることを拒みました。イスラエルは、何度も神に背き、自分たちの好きなように歩んだのです。そこで、主人である神は、イスラエルに預言者たち遣わして、彼らの間違いを指摘し、警告を与えましたが、イスラエルは預言者たちの言葉を聞かずに彼らを迫害しました。主人から遣わされた「しもべ」とは、この預言者たちのことです。主人は最後に、「愛する息子」を遣わしました。これはイエスのことです。しかし、彼らはイエスのことも聞かずに、憎しみから十字架につけて殺してしまいます。「家を建てた者たちが捨てた石、それが要の石となった。」(10)「要の石」とは、家を建てるときに、最後にアーチの頂上の部分を完成させるためにはめ込む、なくてはならない重要な石のことを指します。「これは使い物にならない」と捨てられた石が、その要の石となったというのです。これは、人々に見捨てられ十字架につけられたイエスが、人々に救いをもたらす要の石となったことを示しています。
実は、このたとえを通して、イエスは指導者たちの「何の権威によってこれらのことをしているのか」という質問に答えています。イエスご自身が、父なる神から遣わされたメシアであって、神の権威を持つお方である、ということをハッキリとお示しになりました。それでも彼らは、イエスをメシアとして認めることができなかったのです。

3)このたとえから教えられること
このたとえから、私たちはどんなことを教えられるでしょうか。私が今回特に気づかされたこととして、3点挙げたいと思います。
①1点目のことは、「神は私たちをかけがえのないぶどう園とされた」ということです。神は、ご自分の民イスラエルを「ぶどう園」にたとえられました。「ぶどうの木」は神の祝福を象徴しています。神は、イスラエルの民を選び、彼らを祝福しました。やがて、イスラエルは神に背くようになりますが、それでも神は忍耐をもって彼らに愛を注ぎ、養い、導かれました。神はイスラエルを大切なぶどう園として育てられたのです。そのように、神は、私たちのことも「かけがえのないぶどう園」としてくださったのではないでしょうか。私たちは、「かけがえのない」どころか「欠けだらけの」ものです。それでも神は私たちに惜しみなく、豊かに恵みを与えてくださっています。私たちの人生そのものが、神の恵みにあふれています。ぜひこのことを心に留めて、感謝をおささげしたいと思います。

②2点目のことは、「神はぶどう園の収穫を期待しておられる」ということです。神は、神のぶどう園であるイスラエルが豊かに実を結ぶことを期待されましたが、残念ながら彼らは実を結ぶことが出来ませんでした。果たして、私たちはどうでしょうか。神のぶどう園として、豊かな実を結んでいると言えるでしょうか。神が私たちに期待しておられることは、私たちがイエスに似るように少しずつ成長すること。一生涯かけて「自己中心の生き方」から、「神を愛し、人を愛する者」となれるように変えられていくことです。それが「実を結ぶ」ということではないでしょうか。ぶどうの木であるイエス様にしっかりとつながって(ヨハネ15章)、「御霊の実」(ガラテヤ5章)を結ぶ者となりたいと思います。

③3点目のことは、「ぶどう園の農夫として正しく管理する」ということです。私たちが持っているもの、この体も、賜物も、そして私たちの人生もすべて、私たちにいのちを与えてくださった神からお預かりしているものです。自分の人生を自分の好き勝手に使っていい、というのではないと思うのです。神は私たちにそれぞれ豊かな「タラント」(賜物)を与えてくださっています(マタイ25章)。私たちは、そのタラントを有効に用いることが期待されているのです。例えば、私たちの「体」をしっかりとケアすることも、与えられている「いのちの時間」を計画的に有意義に用いることも大切なことだと思います。

神様から、すばらしい「ぶどう園」を預かっている「良き農夫として」、感謝を忘れずに、私たちのぶどう園を正しく管理し、有効に用いて、豊かな実を結ぶものとなりたいと思います。