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マルコの福音書14:43-50 「見捨てられるイエス」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(マルコの福音書14:50)

【礼拝メッセージ要旨】

今日の箇所には、イエスがエルサレムの宗教指導者たちの手によって捕えられる場面が描かれています。このところから、このときの弟子たちの姿と彼らに対するイエスのお取り扱いに目を留めたいと思います。

1)ユダの裏切り
イエスがゲツセマネで祈り終えられると、そこへユダが現れます。イエスを引き渡すために、祭司長たちから差し向けられた群衆を引き連れて来たのです。マタイ26章によると、祭司長たちにイエスを引き渡す報酬として、ユダは銀貨30枚を受け取っていました。彼はなぜイエスを裏切ることになったのでしょうか。ユダの中にイエスに対する不満があったことは確かなようです。イエスが自分の働きを評価してくれないという不満から、あるいはイエスが自分の期待に応えてくれないという失望感からであったのかもしれません。また、サタンがユダに入ったとあることから、ユダの心がサタンに支配されていたとも考えられます。ユダが報酬として受け取った「銀貨30枚」は、「奴隷一人」のいのちに相当する金額であったようです(出エジプト21:32)。これは、120日分の賃金に相当する額とも言われています。

ユダは、イエスへの口づけを合図に、イエスを引き渡そうとしました。「口づけ」は本来、愛情や尊敬を示す行為です。彼はその行為をもって裏切りの合図としたのです。彼がイエスに近づいて、「先生」と声をかけた時、彼はどんな思いでいたのでしょう。これで、自分を認めてくれなかったイエスに仕返しができると思ったのでしょうか。このユダの姿に、誰もが持っている「罪の性質」が現れているように思います。
その後ユダは、イエスが大祭司の家での裁判で死刑に定められたことを知り、激しく後悔します。そして、彼は受け取った銀貨30枚を神殿に投げ込んで、自ら命を絶ってしまいます。残念ながら、ユダは後悔はしましたが、悔い改めることはできませんでした。最後まで、イエスを救い主として信じることはできなかったのです。

2)イエスの逮捕
イエスは、やってきた群衆に一切抵抗することなく捕らえられてしまいます。そのときペテロが、剣を取って大祭司のしもべの耳を切り落としました(ヨハネ18:10)。しかしイエスは彼をいさめて、耳を切り落とされたしもべの耳を癒されました(ルカ22:51)。「しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」(49)イエスは、聖書の預言のとおり、このことが神のみこころによってなされると告げました(イザヤ53:3、ゼカリヤ11:13など)。もちろん、イエスは神の力によって彼らを打ち負かすこともできたはずです。しかし、そうはされずに、父なる神のみこころに従われたのです。そして、動じることなく十字架へと向かって行かれました。

3)イエスを見捨てる弟子たち
そんなイエスの姿を見て、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ出してしまいます(50)。「私はつまずきません」、「あなたを知らないなどとは決して申しません」と誓っていたにもかかわらず、イエスが目の前であっさりと捕らえられたのを見て、彼らはすっかり動揺し恐れ、イエスを見捨てたのです。何とも情けない弟子たちの姿です。しかし、私たちも彼らと同じようなことをしているのかもしれません。私たちにも彼らと同じような「弱さ」がある、ということを忘れないでいたいと思います。

4)イエスの愛
では、イエスはそんな弟子たちをどのように見ておられたでしょうか。最後に、彼らに対するイエスの取り扱いに目を留めたいと思います。
まず、イエスを裏切った「ユダ」に対する取扱いです。ユダがイエスに口づけした時に、イエスは彼に「友よ」と語り掛けました(マタイ26:50)。ユダが裏切ると分かっておられて、彼のことを「友」と呼ばれたのです。それは、イエスがユダのことを最後まで真実に愛されたからではないでしょうか。彼が裏切ると分かっていても、イエスは彼を信じ、愛を示されました。またイエスは、「あなたがしようとしていることをしなさい。」(マタイ26:50)と告げて、ユダに最後の悔い改めのチャンスを与えました。それほどまでに、イエスはユダのことをあわれみ、深い愛を示されたのです。私たちに対しても、イエス様は「友よ」と呼び掛けてくださるお方です。私たちがどんなに弱くても、イエス様は私たちを「友」と呼んでくださいます。このお方に信頼して、どこまでもお従いしてまいりたいと思います。
「ペテロ」に対する取扱いとして、イエスは彼が耳を切り落とした大祭司のしもべの耳を癒されました。これは、ペテロを守るためでもあったと思われます。ペテロが罪に問われ、その場で逮捕されないようとの配慮からなされたのではないでしょうか。
また、「他の弟子たち」に対してもイエスはあわれみを示されました。「わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」(ヨハネ18:8)イエスは、彼らが弟子たちを捕らえることをお許しにはなりませんでした。弟子たちに危害が及ばないように彼らを守られたのではないでしょうか。そして、イエスご自身一人で、彼らの手に渡されていきました。ここにも、弟子たちに対するイエスの深いあわれみと愛が示されているように思います。
それでも、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げてしまいました。そんな彼らを、イエスは最後まで真実に愛されたのです。

私たちも、この弟子たちのように本当に弱い者です。イエス様は、そんな私たちのために、ひとり十字架に向かわれました。イエス様は、私たちのことを深く愛し、あわれみ、私たちのために日々とりなしてくださっています。このイエス様の大きなご愛と十字架の恵みを覚えて、イエス様に従い続けてまいりましょう。