主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

マルコの福音書14:53-65 「不当な裁判」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「「あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。」(マルコの福音書14:64)

【礼拝メッセージ要旨】

今日の箇所には、イエスが宗教指導者たちの前で裁判を受ける様子が描かれています。イエスは「人の手によって」、「不当な裁判」を受けられました。

1)大祭司のもとでの裁判
聖書によると、イエスが捕らえられてから実際に十字架刑に定められるまでに6回もの裁判を受けたことが分かります。最初の3回はユダヤ人たちの手によるもので、残りの3回はピラトのもとでの裁判でした。この箇所には、イエスが「大祭司カヤパ」のもとで尋問を受けたときの様子が記されています。この裁判は夜通し行われました。彼らはそれほどイエスの処刑を急いでいました。裁判が長引いて群衆が騒ぎ出すことを恐れたことと、安息日が始まって裁判が開けなくなる前に決着をつけたいという思惑もあったようです。

 祭司長たちと最高法院(サンヘドリン)のメンバーは、偽証をしてまでイエスを死刑にしようとしていました。「結論ありき」の裁判でした。ところが、彼らの証言は一致しません。それでも彼らは、無理やりイエスを罪に定めようとしました。彼らはイエスを死刑にしたいために、「偽りの証言をしてはならない」という十戒を自ら破っていたのです。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか」(61)この大祭司の尋問にイエスは臆することなく「わたしが、それです。」と答えています。そして、ダニエル書7:13にある将来来られるキリスト(メシア)の預言のことばを示しました(62)。その「さばき主」として来られるイエスが、人の手によって「さばかれて」いたのです。しかし彼らは、自分たちのしていることの罪の大きさが分かっていませんでした。

 「すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。」(64) 「全員で」ということは、誰ひとり異を唱えるものはいなかった、ということを意味しています。皆が、「自分たちは正しくて、この男は間違っている」と思い込んでいたのです。もしかしたら、議員の一人であった「アリマタヤのヨセフ」もその場にいたかもしれませんが、周りの雰囲気に押され、声を上げることが出来なかったのではないでしょうか。ここにも人の中にある罪が現れているように思います。

2)イエスはなぜ死刑とされたのか?
宗教指導者たちはなぜ、これほどまでしてイエスを死刑にしようとしたのでしょうか。「表向きの理由」は、「イエスが神を冒瀆する罪を犯した」ということでした。しかし、彼らの本音は別のところにあったと思われます。イエスは祭司長たちの権威を批判し、律法学者たちを「偽善者」と言って批判しました。彼らの目には、イエスは自分たちの権威を認めず、批判し、ことごとく逆らっていると映ったようです。一方でイエスは、数々の奇跡を行い、それまでなかったようなすばらしい教えをし、民衆の人気を集めていました。そうしたことが赦せなかったようです。彼らの中には、イエスに対する「ねたみと憎しみ」がありました。これが彼らの本音であったと思います。その思いから、彼らはイエスを殺そうと考えました。これも、「殺してはならない」という十戒に反することでした。

3)人間の自己中心性
この宗教指導者たちの姿は、私たちの中にもある「罪の性質」を映し出しています。決して他人事ではないのです。彼らは「自分たちは絶対に正しい」、「自分たちを認めない者は間違っている」と思い込んでいました。私たちの中にも、そんな思いがあるのではないでしょうか。私たちは、自分の姿を客観的に見るということがなかなかできないものです。それは、アダムの時以来、人の中に入って来た「自己中心の罪の性質」から来るものです。

 では、私たちが彼らのようにならないためにどうすればいいのでしょうか。神との交わりをもつことです。ひとり神の前に静まって祈り、みことばを読んで黙想することです。神は、みことばと聖霊の働きを通して私たちの心に語り掛けてくださいます。そうすると、いろんなことに気づかされてきます。それは、今の自分の心の状態を鏡で見るようなことではないでしょうか。この、みことばの黙想と祈りの時を、自分にとって大切な時間として毎日確保し、実践していきたいと思います。

4)私たちの罪を負われたイエス
では、この不当な裁判の間、イエスはどうしておられたでしょうか。彼らの偽証に対しては沈黙し、彼らの不当な判決を黙って受け止められました。イエスは、彼らのあざけりも黙って受けられたのです(65)。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」(イザヤ53:4) この「苦難を受けるメシア」の姿が思い起こされます。イエスは一切抵抗することなく、ねたみと憎しみにかられた者たちの手によって不当にさばかれ、罪に定められ、苦しみを受けられました。それは、彼らの自己中心の罪をイエスが代わりに負うためでした。私たちの中にも、同じような自己中心の罪があります。そんな私たちの罪を、イエスは黙って代わりに負ってくださいました。イエス様は、それほどまでに私たちをあわれみ、愛してくださったのです。この大きな恵みを決して忘れないようにしたいと思います。

彼らの姿は、私たちの中にもある自己中心の罪を表しています。そんな私たちの罪を負って、イエス様は十字架に向かわれました。この恵みを覚えて、感謝をおささげしましょう。