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マルコの福音書14:27-31,66-72 「ペテロの誓いと否認」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(マルコの福音書14:30)

【礼拝メッセージ要旨】

今日の箇所には、ペテロが自分の弱さを思い知らされた出来事が記されています。今日は、このペテロの姿に目を留めたいと思います。

1)弟子たちのつまずきの予告
イエスが弟子たちと過越の食事を取ったあと、イエスの一行はエルサレムの東側にあるオリーブ山へ出かけました。その途中、イエスは彼らに「あなたがたはみな、つまずきます」(27)と告げました。「つまずく」と訳されている言葉は、もともと罠を意味していて、そこから「つまずく」とは、「離れる」「見捨てる」「道を外れる」というような意味合いで使われるようになりました。イエスは、弟子たちがみな「イエスを見捨てて、イエスから離れて行ってしまう」と予告されたのです。

2)ペテロの誓い
「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」(29) ペテロは自信満々に誓いました。しかしイエスはこう言われました。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言います。」(30) 朝を迎える前にあなたは三度もわたしを否認する、というのです。それでもペテロは、「あなたを知らないなどとは決して申しません」(31)と宣言しました。ペテロはなぜ、これほど自信満々に宣言することが出来たのでしょうか。彼は、それまでの力強く、頼もしいイエスの姿を間近で見ていました。このお方は、これからもずっと力あるお方で、やがてこの国を治める王となるに違いないと信じていたからではないでしょうか。あくまでも、今の頼もしく見えるイエスにより頼んでいたのです。ところが、その大前提がもろくも崩れ去ることになってしまいます。

3)ペテロの否認
このあと、イエスがあっけなく捕らえられたとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて逃げ出してしまいます。しかしペテロは、遠くからイエスのあとをついて行き、裁判の行われていた大祭司の家の中庭に入って火に当たっていました。そこで召使いの女性に「あなたも、イエスと一緒にいましたね。」と声をかけられ、彼はとっさに「何を言っているのかわからない。理解できない。」(68)と答えてしまいます。さらに二度、「私はあの人を知らない」とイエスを否認しました。しかも、イエスを知らないと神に誓ったというのです(71)。その誓いは、イエスに対する誓いとは正反対の誓いでした。こうしてペテロは、イエスに予告された通り、恐怖心と自己保身から三度イエスを否んでしまいました。まさに、イエスが予告されたとおりとなったのです。「そして彼は泣き崩れた」(72) 彼はこの時、自分のふがいなさ、弱さをいやというほど思い知らされたのではないでしょうか。自分の誓いがいかに当てにならないものであるか、痛感したと思います。しかしこの辛い経験も、ペテロにとって必要なことであったと思います。思い知らされたことで、彼の高慢が打ち砕かれて、本当の意味でへりくだる者とされていったのではないでしょうか。彼にとって貴重な体験となったはずです。

4)誓ってはいけません
このペテロの姿は、決して他人事ではないように思います。私たちにも、彼のような弱さがあるのではないでしょうか。人は、口先ではいくらでも「立派なこと」は言えます。しかし、言ったことを実際に行動で示すということはなかなか難しいことです。自分にとって都合が悪いとなれば言い訳をし、無責任な行動をとってしまうこともあるかもしれません。

イエスは、「誓ってはいけません」と教えられました(マタイ5:34)。これは、最初からその約束を守るつもりもないのに軽率な誓いをしてはならない、ということを意味しています。それほど私たちは弱い者で、自分が誓ったことを実行できない者であることを示しています。そんな私たちに、イエスはこう言っておられます。「あなたがたの言うことばは、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさい。」(マタイ5:37) これは、自分の立場をハッキリさせるということを言っていると思います。あとで自分の都合の良いように言い訳できるようにあいまいにしない、ということです。このところから、私たちは、「自分の言った言葉に責任を持つ」、ということを教えられるように思います。自分が誓ったことに誠実に向き合うことです。そして、その約束を果たすためにできる限りの努力をすべきではないでしょうか。

5)イエスの真実
では、そんな弱さのあったペテロを、イエスはどのように取り扱われたでしょうか。最後に、イエスの姿に目を留めたいと思います。「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」(ルカ22:32) これはイエスが最後の晩餐の席で言われた言葉です。何とイエスは、ペテロがつまずくことを知っておられて、彼のために祈っておられました。父なる神にとりなして、それが「聞き届けられた」ということです。イエスは、ペテロがつまずく前から祈っておられたのです。何というあわれみでしょうか。私たちも失敗する者です。ペテロ以上に過ちを犯してしまうものです。そんな私たちのためにも、イエスはとりなしてくださっているのです。

そのように、イエスはペテロに対して真実を尽くされました。ペテロはイエスへの誓いを果たすことが出来ませんでしたが、イエスは、彼に対して真実に仕えてくださいました。イエスは、私たちに対しても真実を示してくださいました。「真実」ということは、「約束を守る」、「誠実である」ということを意味しています。私たちには、約束を完全には守れない弱さがあります。それでも父なる神は、そんな弱い私たちに、神の御子イエスによって救いをもたらすという約束を成し遂げてくださいました。イエスは、私たちを罪から救うために、十字架でご自身をささげられました。ここに、私たち罪人に対する、神の「大きな愛」が表わされています。

この恵みを覚えて、私たちに真実に仕えてくださったイエス様に信頼し、従い続けてまいりましょう。