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マルコの福音書14:10-26 「新しい契約」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(ルカの福音書22:20)
【礼拝メッセージ要旨】
今日は、「最後の晩餐」でイエスがどんなことをされたのか、そしてそれらのことにはどんな意味があったのか、ご一緒に思い巡らしたいと思います。
1)ユダの裏切りの予告
今日は、この「最後の晩餐」の出来事を、4つの点から見ていきたいと思います。まず1つ目のことは、「イエスはユダが裏切ることを予告された」ということです。このとき、エルサレムの宗教指導者たちはイエスを捕らえて殺そうと企んでいました。そのときに、イエスの弟子のひとりの「イスカリオテのユダ」が動きました。彼は祭司長たちのところへ行き、お金と引き換えにイエスを引き渡す相談を持ち掛けたのです。ユダがなぜイエスを裏切ることになったのか、聖書はその理由をハッキリとは語っていません。イエスに対して何か不満があったようです。イエスはそんなユダの心もすべて知っておられました。この晩餐の席で、イエスはユダが裏切ることを予告されました。「人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」(21)厳しい言葉に聞こえますが、これは、ユダが悔い改めることを願って言われたことではないでしょうか。それでも彼は、この席を立って出て行きました。
このユダの姿は、私たちの姿をも表しているのではないでしょうか。私たちの中にもユダと同じような弱さがあると思うのです。そんな私たちの弱さをイエスはすべて分かっておられて、十字架に向かわれました。
2)パンと杯を与えたこと
2つ目のことは、「イエスは弟子たちにパンとぶどう酒を与えられた」ということです。イエスは、「パン」を与えたときに「これはわたしのからだです」と言い、「ぶどう酒」を与えたときには「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です」と言われました。それは、このあとイエスが捕らえられ十字架につけられて、身を裂かれ血を流されることを意味していました。イエスは、そのことを忘れないようにと、前もって彼らに示されたのでないでしょうか。「食べて、飲む」ということは、「味わう」こと、自分のこととして体験することです。この体験があったからこそ、彼らは後によみがえられたイエスの深い取り扱いを受けて、「この自分の罪、弱さのために、イエス様のからだが裂かれ、イエス様の血が流されたのだなあ」と、心に刻むことができたのではないでしょうか。それは、私たちの罪のためでもありました。
3)新しい契約
3つ目のことは、「イエスは彼らと「新しい契約」を結ばれた」ということです。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ22:20) どうして「新しい契約」と言われたのでしょうか。旧約の時代、神は、イスラエルの民が神に聞き従うならば「祝福」を、しかし従えない場合は「のろい」を与える、という「契約」を彼らと結ばれました。その「契約のしるし」として、動物の血が流されたのです。これが、「古い契約」(旧約)です。しかし残念ながら、彼らは神に従い続けることができませんでした。彼らは目に見える繁栄を求めて、外国の神々に頼るようになり、その結果、北イスラエルはアッシリア帝国によって滅ぼされ、南ユダもその100年後にバビロニア帝国によって滅ぼされて、人々は遠いバビロンへと捕囚とされてしまいました。彼らは、律法による「古い契約」を守れませんでした。しかし神は、前もって、彼らにメシア(救い主)を送るという約束を与えていました。何と、そのメシアによって、彼らが守れなかった「古い契約」に代わる「新しい契約」を結ぶという約束を与えられたのです。それは、彼らの心に書き記されるものであって、「この契約によって、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」というものでした(エレミヤ31:31~34)。この「新しい契約」が、この時から600年後、イエスによって実現しました。イエスがメシアとして来られて、イエスが十字架で血を流されることによって罪の赦しがもたらされたのです。イエスが最後の晩餐で「わたしの血による、新しい契約です」と言われたことは、このことを意味していました。この新しい契約には、イスラエル人に限らず、すべての人があずかることができるようにされました。
では、私たちがこの「新しい契約」にあずかるために、私たちに求められることは何でしょうか。それは、「イエスを自分の救い主として信じること」(イエスへの信仰)です。イエスを信じる信仰によって神に応答することです。「信仰」とは、自分のすべてを神に明け渡すことを意味しています。「神に明け渡す」とは、弱さのある自分を素直に認め、向きを変えて悔い改めて、神の前に降参することです。そして、イエスを自分の心の真ん中にお迎えすることです。一方で、「信仰」が、何か自分の「行い」のようになってしまってもいけません。もし、信仰を自分の努力によって得たかのように考えるとしたら、それも「行い」と何ら変わらないことになってしまいます。私たちは、ただイエスの十字架の恵みによって救いにあずからせていただいたのです。このことを決して忘れてならないと思います。
4)主の晩餐の制定
そのために、イエスは、私たちに「主の晩餐」を守り行うことを命じられました。これが4つ目のことです。イエスは最後の晩餐で、「主の晩餐を守り行うこと」を制定されました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(コリントⅠ11:25)イエスは、 パンを食べ、ぶどう酒を飲むたびに、イエスの十字架の恵みによって救われたことを覚えて、これを守り行いなさいと命じられました。「主の晩餐」にあずかることは、「この私の罪のために、イエス様の身が裂かれ、血が流されたこと」を覚えることです。自分の信仰を確認するときでもあると言えます。このことをしっかりと心に留めながら、主の晩餐にあずかってまいりたいと思います。
イエス様は、私たちの弱さのために十字架でご自身のからだをささげ、血を流されました。そのイエス様が流された血潮によって、「新しい契約」の恵みがもたらされました。神は、すべての人がイエスを信じる信仰によってこの恵みに応答し、罪からの救いを受け取ることを願っておられます。この大きな恵みを覚えて、イエス様に信頼し、お従いしてまいりましょう。