主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

マルコの福音書11:27-33 「何の権威によって」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(マタイ28:18)

【礼拝メッセージ要旨】

今日の箇所には、イエスがユダヤ人の指導者たちと論じ合っている場面が描かれています。イエスが十字架にかけられるきっかけとなった出来事の一つです。

1)何の権威によって
「宮きよめ」の出来事の翌日、イエスは再びエルサレムの宮に入られます。イエスは宮の中で「教え」もされていたようです。するとそこに、「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」がやって来て、「何の権威によってこれらのことをしているのか」と問いただしました。彼らは前日の一件から、イエスを殺そうと相談していたのです。彼らには、自分たちこそ神からの権威を受けている、正しい者たちだという思いがあったようです。しかし、イエスが現れて状況が変わってきました。イエスがそれまで教えられていなかったようなことを教え、多くの人々がイエスのもとに集まるようになっていました。また、イエスは、イスラエルの指導者たちの間違いを厳しく指摘されました。彼らは「口伝律法」と呼ばれる、自分たちで作った細かい決まりを忠実に守り行うことを何よりも大切にしていましたが、イエスは、律法が教えていることは「神を愛し、人を愛すること」の2つに要約されると語り、彼らの間違いを指摘されたのです。彼らは神の教えではなく、人の教えに縛られていました。そんな彼らの姿を、イエスは「偽善者」と呼び、「葉っぱだけで実のないいちじくの木」に例えました。彼らにしてみれば、イエスという素性のよく分からない田舎者が現れて、勝手なことをし、人々の人気を集め、権威者である自分たちを公然と批判していると感じたようです。そうしたことがあって、彼らはイエスを憎み、次第に敵対心を抱くようになって、ついにはイエスを殺すことを企みます。

2)ヨハネのバプテスマを巡る問い
「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。」(30) イエスは逆に、こう彼らに問いました。彼らは互いに論じ合い、結局「分かりません」と答えます。どちらに答えても自分たちに不利になると考えて、明確に答えることを避けたのです。彼らの本心は、「ヨハネは人から出たもの」ということでしたが、ヨハネを預言者と信じていた群衆を恐れてのことでした。これを聞いてイエスは、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」と答えました。
このときイエスは、どうしてこのような答え方をしたのでしょうか。彼らが自分たちの姿に気づけるようにするためであったと思います。彼らはヨハネを預言者とは認めたくないと思っている自分たちの姿に気づいたのではないでしょうか。また、自分たちが群衆を恐れていることにも気づかされたと思います。それでも、彼らが悔い改めることはありませんでした。

3)私たちは自分の姿に気づけない
この出来事を通して、私たちが教えられることがあるように思います。特に2つのことに目を留めたいと思います。
一つ目のことは、「私たちは自分では自分の姿に気づけない」ということです。イスラエルの指導者たちは、自分たちこそ神の権威を受けている正しい者たちだという自負があって、イエスに間違いを指摘されても自分たちの姿に気づくことはできませんでした。自分たちこそ絶対に正しいと信じて疑わなかったのです。これは、私たちの姿でもあるように思います。誰しも、自分は正しいと思っているところがあるのではないでしょうか。自分が間違っているとは認めたくないものです。そのように、私たちは自分の姿を客観的に見ることができません。そんな私たちのために、イエス様は十字架に向かわれました。では、私たちはどうすれば自分の姿に気づくことが出来るのでしょうか。そのために、自分の姿を映す「鏡」が必要です。その「鏡」となるものを神は私たちに与えてくださいました。それが、聖書(神のことば)です。みことばを思い巡らしていくことを通して、自分の姿に気づかされるのです。みことばを通して、聖霊様の助けをいただいて、常に自分の姿を顧みることを大切にしたいと思います。

4)イエスの権威に従う
もう一つのことは、「イエスの権威に従う」ということです。そんなことは当たり前のことのように思えるかもしれません。しかし、本当に「当たり前のこと」としてイエス様の権威を認めて従っているでしょうか。たとえば、神様のみ思いよりも、「自分の思い」を最優先にしてしまっていることがあるかもしれません。自分の思いを後押ししてくれるようなみことばを選んで、「これはみこころ」だと、思い込んでしまうことはないでしょうか。本当に気を付けなければならないことです。
また、神に聞くよりも、「人のことば」(声)に従ってしまうことのないように気を付けたいと思います。たとえ有名な牧師であったとしても、人は完全ではありませんので、間違うこともあるのです。また、「大きい声」を上げる人に影響されることのないようにしたいと思います。イスラエルの指導者たちも、「群衆を恐れ」ました。神の声に聞き従うよりも、人の目を気にしたのです。最近は、インターネットなどを通しても、いろんな声が聞こえてきます。周りの大きな声や、世の中の空気などに流されないようにしたいものです。
私たちは、イエス様は何といっているか、こんなときイエス様ならどうされるだろうかと祈りながら、みことばに聞き従いたいと思います。

「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(マタイ28:18) イエス様には、一切の権威が与えられています。このお方が、ご自分のいのちを与えてくださったほど私たちを愛し、私たちとともにいて、私たちの人生を導いてくださいます。この大きな恵みを忘れずに、心からの感謝をもって、イエス様に信頼しお従いしてまいりましょう。