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マルコの福音書11:11-19 「砕かれた心で」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。」(詩篇51:17)
【礼拝メッセージ要旨】
この箇所には、イエスが十字架に向かってエルサレムに入って最初になされた「宮きよめ」と呼ばれる出来事が記されています。このことを通してイエスは何を教えようとされたのでしょうか。
1)宮きよめの出来事
イエスがエルサレムに着いて、真っ先に向かったところは「宮」でした。そこで何がなされているのかをじっくりとご覧になったのです。当時エルサレムにあった神殿はヘロデ王が建てた神殿でした(ヘロデの神殿)。そこには、「異邦人の庭」と呼ばれる広大な外庭が設けられていて、そこまでは「異邦人」も入ることが許されていました。ヘロデは外国人にも自分の力を誇示するために異邦人の庭を設けたようです。もちろん、そこは神を敬う異邦人たちが祈りをささげる場となっていました。その「異邦人の庭」で何がなされていたかをイエスはご覧になりました。そして翌朝、大胆な行動に出ます。イエスは憤って、そこで売り買いしている者たちを追い出し、台や腰掛けを倒されました(15)。神殿の異邦人の庭で、「売り買い」や「両替」がなされていたからです。神殿に礼拝に訪れるユダヤ人たちは、宮に納めるいけにえとしての羊や牛や鳩をそこで買い求め、納入金をローマの通貨からユダヤの通貨に両替していました。ユダヤの宗教指導者たちは神殿の異邦人の庭でそうした商売を許可し、高額な手数料を受け取っていたのです。そこは市場のように喧騒に満ちたところとなっていました。
「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる。」(17) そこは本来、「祈りの家」でした。しかし、そこでなされていたことは祈りではなく、金儲けでした。イエスは、そうした状況を「あなた方は、この神聖な場所を「強盗の巣」にしてしまった」と厳しく非難されたのです。これは、このときのイスラエルの民の「霊的状況」を物語っています。
2)実を結ばないいちじくの木
そんな彼らの霊的状況を、イエスは「いちじくの木」にたとえました。その日イエスは、ベタニアから宮に向かう途中で空腹を覚えて1本のいちじくの木に目を留められます。イエスが近づいてみると、葉は茂っているのに実はついていません。まだ実のなる季節ではなかったからです。しかしイエスは、その木に向かってこう言われました。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」(14) これは、このときのイスラエルの民の姿をそのまま物語っている出来事でした。葉が茂って立派に見えても、「実を結ばないいちじく」のように、彼らが一向に成長せず、霊的な実を結んでいない状態にあったことを示しています。彼らは「形だけの信仰」となっていました。律法の戒めをちゃんと守って、決められたとおりに安息日には礼拝を守り、いけにえをささげ、納めるべきものを納めていればそれでいい、自分たちはなすべきことをしている、神から正しいと認められていると思い込んでいたのではないでしょうか。彼らの信仰は義務的で形式的なものになっていました。そんな彼らの「心のあり方」をイエスは戒められたのです。
「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。」(詩篇51:17)このダビデの悔い改めの祈りに表わされているように、神が私たちに求めておられることは、どんなに立派ないけにえよりも私たちの「砕かれた心」です。神の前にへりくだって、自分がいかに小さく弱く罪深い者であるかを自覚し告白し、悔い改めることなのです。しかし、宗教指導者たちはそれが分からずに、悔い改めるどころかイエスを殺そうと企みます(18)。
3)私たちが教えられること
このところから、私たちも教えられることが多くあるように思います。3つの点を挙げたいと思います。
①一つ目のことは、「形だけの信仰となっていないか」ということです。私たちも、いつの間にか「形だけの信仰」となってしまっていることはないでしょうか。そのことが問われているように思います。毎週日曜に教会に行き礼拝をささげ、決められた奉仕をちゃんとこなし、献金をしっかりささげている私は立派なクリスチャン。そのように思ってはいないでしょうか。もちろん、これらのことは大事なことです。でも、「これさえしていればいい」と、何か義務的、形式的になっているとしたら要注意です。神様に救っていただいたことへの「感謝と喜び」を忘れずに、いつも「砕かれた心」をささげているでしょうか。自分の信仰が新鮮さを失って、マンネリ化してはいないでしょうか。こうしたことを常に点検して、忘れないようにしたいと思います。
②二つ目のことは、「私たち自身が「祈りの家」となっているか」ということです。聖書は、私たちの体は「聖霊の宮」だと語っています。その「聖霊の宮」である私たちの心の中はどういう状態になっているでしょうか。世の中のことや、様々な心配事でいっぱいになってしまっているかもしれません。でも、大事なことは祈りの生活を何よりも大切にすることです。どんなに忙しくても、一人静まって心を神様に向けて、みことばと、共にいてくださる聖霊様のみ声に聴いていくことです。そして、心からの祈りをささげることです。その時間を大切にしたいと思います。
③そして三つ目のことは、「実を結ぶ者となる」ということです。私たちは「信仰の実」を結んでいると言えるでしょうか。それは、聖霊の助けによって私たちの中で育まれ、内側からあふれ出るように外へと表れて行くものです。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22,23)こうした「御霊の実」を結ぶ者となりたいと思います。自分の努力だけではできないことです。祈りと聖霊の助けをいただいて、少しずつ人格が練られ、イエス様に似る者へと変えられていくのです。
「打ち砕かれた心」を忘れずに、イエス様とともに歩んでまいりましょう。