主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

マルコの福音書6:30-44 「あなたがたがあげなさい」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」(マルコの福音書6:37)

【礼拝メッセージ要旨】

今日の個所には、「5千人の給食」として知られている出来事が描かれています。今日は改めてこのところに目を留めたいと思います。

1)イエスの愛とあわれみ
宣教の旅に遣わされた弟子たちがイエスのもとに帰って来て、旅の報告をすると、イエスは彼らに寂しいところへ行ってしばらく休むように告げます。しかし、彼らが向かった先では、すでに大勢の群衆が先回りして彼らを待っていました。イエスはその人々を深くあわれみ、再び教え始められました。羊飼いのいない羊の群れのように弱り果て、救いを求めて来た人たちの思いを受け止めて、イエスは深い愛を示されたのです。イエス様は、私たちの心の思いも分かってくださり、深くあわれんでくださるお方です。

2)あなたがたがあげなさい
やがて日が暮れ始め、弟子たちは群衆の食事のことを心配します。早く休みたいという思いもあったかもしれません。そこで彼らは、イエスに群衆を解散させてくださいと進言しました。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」(37)イエスは、弟子たちが群衆を食べさせることを求めます。「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか。」(37)彼らは、そんなことは自分たちには無理だとハナから決めつけていたようです。そんな弟子たちにイエスはこう言われました。「パンはいくつありますか。行って見て来なさい。」(38) これは、「あなたがたでできることがあるでしょう。まず、それをやってみなさい。」と言われているように思います。実際にパンはどれだけあるのか、自分たちの目で確かめてみるということです。弟子たちは言われた通りパンを探し、「5つのパンと2匹の魚」があることが分かりました。ヨハネ6章によると、そこにいた「一人の少年」が持っていたものです。イエスはその5つのパンと2匹の魚を取って、祝福して裂いて、弟子たちの手に渡して、それを人々に配るように命じました。すると何と、そこにいた全員が食べて満腹し、さらに12かごものパンが集められたのです。
結果として、人々は弟子たちの手から食べ物を受け取って、全員が食べることができました。イエスは、最初からご自分で与えようとはされずに、まず弟子たちが自分で考えて行動することを求められたのではないでしょうか。彼らが探して持ってきたものを用いて、幾倍にも増やし、そこにいたすべての人のお腹を満たされたのです。イエス様は、私たちをも用いて、みこころをなしてくださいます。

3)イエスは私たちの背中を押してくださる
今日の箇所全体を通して、特に3つのことに目を留めたいと思います。まず一つ目のことは、「イエスは、私たちの背中を押してくださる」ということです。イエスは途方に暮れていた弟子たちに、「あなたがたがあげなさい」と言われました。そして彼らは、まずパンを探しました。イエスに背中を押されて行動したのです。そのようにイエス様は、「まずは自分でやってみなさい」と、私たちを励ましてくださっているのではないでしょうか。それは、目の前に置かれた困難に立ち向かうことであったり、何か初めてのことに取り組む時にも言えることだと思います。イエス様が私たちの背中を押し、応援してくださっている、ということを覚えて、一歩前に踏み出してまいりたいと思います。

4)イエスは私たちの差し出す小さなものを大きく用いてくださる
次に2つ目のことは、「イエスは、私たちの差し出す小さなものを大きく用いてくださる」ということです。弟子たちが差し出したものは、5つのパンと2匹の魚でした。「たったそれだけ」です。それでもイエスは、「それで充分」と言われたのではないでしょうか。そしてそれらを大きく増やしてくださいました。私たちにできることは、本当に小さなことです。それでも、イエスを信じて、小さな一歩を踏み出すことに意味があるように思います。不完全でも、充分でなくてもいいのです。たとえ小さなものであっても、心から喜んでささげるならば、イエス様はそれを祝福し、幾倍にもして、大きく用いてくださいます。このことを信じて、自分にできることをささげてまいりたいと思います。

5)自分にできることは何か考える
そして3つ目のことは、「自分にできることは何かを考える」ということです。イエスが弟子たちに問われたように、私たちにも、自分にできることは何か考えなさい(祈り求めなさい)と、問われているのではないでしょうか。例えば、家庭や職場において自分にできること、また自分の人生においてこれから取り組むべきことは何か、祈りながら考えたいと思います。私たちは、限られた時間と空間の中で生かされています。そこでできることは、ほんのわずかです。それでも、そこで自分のなすべきこと、自分にできることが必ずあるはずです。

一方で、「イエスにゆだねる」ことと、「自分にできることをする」ということはどう考えればいいのでしょうか。一見、相反することのようにも思えます。一つ心に留めたいことは、「イエスにゆだねる」とは、最初から何も考えないで(何もしないで)「丸投げ」することではない、ということです。祈りながら考えて、自分にできることを精一杯やった上で、自分にはどうしてもできないこと(自分ではどうすることもできないこと)をイエスにお任せしていくこと。そして、その結果を受け入れること。これが、「イエスにゆだねる」ということではないでしょうか。

イエス様は、私たちが喜んで差し出すものを祝福し、大きく用いてくださいます。このことを信じて、自分にできることは何か祈り求めてまいりましょう。