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マルコの福音書3:13-19 「行って、実を結ぶために」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「あなたががわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、~」(ヨハネの福音書15:16)
【礼拝メッセージ要旨】
イエスは大勢いた弟子たちの中から特別に12人の弟子たちを選びました。主は彼らをどのように選び、彼らにどんなことを期待されたのでしょうか。
1)12弟子を選ぶ
ある時イエスは山に行き、一晩中父なる神様に祈られたあと、そこに弟子たちを呼び寄せられました。そして、その中から特別に12人を選び、「使徒」と名付けます。「使徒」とは、「使命を帯びて遣わされた者」という意味です。「彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるため」(14,15) ここに、使徒たちを任命した目的が記されています。イエスが彼らと一緒に生活し、彼らを教え訓練し、町々に遣わして福音を宣べ伝えさせるために、彼らは選ばれたのです。
2)選ばれた12人について
では、その選ばれた12人はどのような者たちだったでしょうか。例えば、「ペテロ」は直情的で、後に「イエスを知らない」と3度否むことになります。「ヤコブとヨハネ」は、イエスから「雷の子」と呼ばれるほどに気性が激しかったようです。「マタイ」は取税人で、人々から「罪人」と呼ばれるような人でした。また、「熱心党のシモン」は愛国主義者で、ちょっと過激な人物だったようです。そして「イスカリオテのユダ」は、イエスを銀貨30枚で祭司長たちに売り渡すことになります。12人の中には、当時人々から尊敬されていた「律法学者とかパリサイ人」や「祭司たち」は一人も含まれていません。彼らはむしろ、田舎の普通の漁師であり、罪人と呼ばれていたような人であり、人間的な弱さを抱えた人たちでありました。「なんでこの人が?」と思えるような人たちです。なぜ、彼らが選ばれたのでしょうか。
3)神の選びについて
ここで、「神の選び」ということについて少し考えてみたいと思います。「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び」(エペソ1:4) 何と、世界が造られる前から、神は私たちのことを救いに選んでくださっていたというのです。では、神はどのように人を選ばれるのでしょうか。私たちはその理由を完全に知ることはできません。しかし、神の選びについて聖書に示されていることがあります。2点、挙げたいと思います。
1つ目のことは、「ただ、みこころのままに、愛をもって選ばれる」(エペソ1:5)ということです。あの12弟子の中には、イエスを裏切ることになるイスカリオテのユダもいました。そのユダのことも、イエスは愛しておられたのです。私たちも決して立派な者ではありません。むしろ欠けだらけの者です。それでも神は、そんな私たちのことをもこよなく愛しておられます。そして、私たちをご自分の子とするために、イエスさまを信じる心を与えてくださいました。神の選びは、私たちへの深い愛とあわれみから出ているということを感謝をもって覚えたいと思います。
2つ目のことは、「取るに足りない小さなものを選ばれる」(コリントⅠ1:28)ということです。神は、この世の権力者や能力のある人や、立派な行ないをしているというような理由で選ぶことはなさいません。むしろ、「取るに足りない者や見下されている者」や「この世の弱い者」を選ばれる、というのです。これは、自分がいかに罪深く、弱い者であるかを自覚している人のことを指していると思います。選ばれたあの12人も皆、自分たちの弱さを自覚させられました。彼らは、本当に弱い者たちでした。私たちにもそんな弱さがあるのではないでしょうか。そんな私たちをもイエス様は愛してくださり、救いへと選んでくださいました。このことを覚えて、感謝をおささげしたいと思います。そして、私たち神様の前には何も誇れるものはない、本当に弱く小さな者である、ということを忘れないでいたいと思います。
4)私たちに期待されていること
最後に、神が救いに選んでくださった私たちに期待されていることについて考えてみたいと思います。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、」(ヨハネ15:16) イエスが私たちを選ばれたのは、私たちが「行って、実を結ぶため」、そして「その実が残るようになるため」だと言われました。私たちが「出て行って、そこで実を結ぶこと」が期待されている、ということです。
「出て行って、実を結ぶ」とはどういうことでしょうか。イエスにつながりながら、「普段の生活の場」に遣わされていくことではないでしょうか。例えば、まず「家庭」があります。イエスは、先に救われた私たちを、私たちの家庭に遣わしておられます。その家庭の場で、私たちがクリスチャンとしてキリストの愛を表わすことが期待されていると思います。また、私たちの働いている「職場」があります。職場の同僚の方々や、仕事を通して出会う人たちに、私たちの普段の姿を通して、「キリストの香り」を放つことができたらいいのではないでしょうか。だからと言って、「クリスチャンらしくしなければ」と気張る必要はありません。イエス様のお姿を思い浮かべながら、自分らしく自然体で、周りの人たちに関わっていけばいいと思います。また、私たちの住んでいる地域の「ご近所さん」とのお付き合いもあります。まさに「あなたの隣人」です。
そのように、私たちが世に出て行って、周りの人々に愛を表わし、良い関係を築くことをイエス様は期待しておられます。それが、「実を結ぶ」ということでもあると思います。イエス様は、私たちを「今週もそれぞれの場に出て行って、実を結んできなさい」と、励ましておられます。
私たちが今遣わされている家庭や職場や地域において、自分にとって「行って、実を結ぶ」とはどういうことなのか、祈り求めてまいりたいと思います。そして、周りの人々に愛を持って関わり、仕えてまいりましょう。