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ヨハネの福音書6:1-13 「あふれるばかりの祝福」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ人への手紙1:3)
【礼拝メッセージ要旨】
今日は、子ども祝福式に関連して、「5千人の給食」として知られている箇所から、ここに登場する「一人の少年」の姿に目を留めて、「神が与えてくださる祝福」について思いを巡らしたいと思います。
1)5千人の給食
この時イエスのあとを追って、大勢の群衆が集まっていました。その数「男だけで5千人」とあります。その家族も入れると、おそらく2万人位はいたでしょう。その人々を見て、イエスは弟子のピリポに「どこからパンを買って来て、この人たちを食べさせようか。」(5) と尋ねます。それはピリポを「試す」ためでした。ピリポは、「一人ひとりが少しずつ取るにしても、200デナリのパンでは足りません。」と答えます。またアンデレは、「ここに、大麦のパン5つと、魚2匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」(9) と答えました。ピリポもアンデレも、目の前の現実的なことを考えて、「それは無理」と判断したのです。
彼らの答えを聞いてイエスは、その少年が持っていた5つのパンと2匹の魚を手に取り、感謝の祈りをささげて人々に分け与えられます。すると不思議なことに、パンと魚は一向に無くなることなく、すべての人に行き渡りました。それどころか、パンが12のかごいっぱいに余ったのです。イエスが、そこにいたすべての人の必要を有り余るほどに満たしてくださった(祝福してくださった)、そんな奇跡の出来事でした。
2)少年の信仰
ところで、この少年はなぜ5つのパンと2匹の魚を持っていたのでしょうか。また、彼はどんな思いでそれらを差し出したのでしょう。この時の状況と、この少年の思いを少し想像してみたいと思います。この時彼は、家族のお弁当を預かっていたのかもしれません。アンデレが食べ物を捜して辺りを見回したのを見て、とっさに「これを使ってください」と申し出たのだと思います。彼は、イエス様のお役に立ちたいと願って、自分にできる精一杯のことをしたのではないでしょうか。そんな少年の思いを受け止めて、イエスはそのパンと魚を受け取りました。そして何と、何百倍、何千倍にも増やしてくださったのです。この少年の信仰に目を留めたいと思います。
3)大人たちの思い
果たしてこの時、この少年の他には、本当に誰も食べる物を持っていなかったのでしょうか。おそらくこの少年の家族の他にも、食べ物を持ってきていた人たちがいたのではないかと思われます。しかし、彼らは皆押し黙っていたと思うのです。手に持っていたお弁当を後ろ手に隠した大人もいたかもしれません。そんな「大人の都合」が想像されます。しかしこの少年は、自分の手にあるものを、素直にイエスに差し出したのです。彼は、「イエス様なら何とかしてくださる」と信じていたと思います。そしてイエスは、彼が差し出したものを豊かに祝福して、何千倍にもしてくださいました。
私たちも、この弟子たちや、周りにいた大人たちのように、目の前の現実的なことだけを考えて、「これは無理」だとハナからあきらめてしまっていることはないでしょうか。
4)神は人の思いをはるかに越えて祝福してくださる
この個所から、「神が与えてくださる祝福」ということについて、考えてみたいと思います。このところから教えられることとして、3つのことを心に留めたいと思います。
まず1つ目のことは、「神は、人の思いをはるかに越えて祝福してくださる」ということです。弟子たちは、「これだけでは何の役にも立ちません」と、最初から無理だと決めつけていました。しかしイエスは、あの5つのパンと2匹の魚をあふれるばかりに増やして、豊かに祝福してくださいました。彼らの思いをはるかに越えて祝福されたのです。「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ1:3) 「天上にあるすべての霊的祝福」ということは、地上にある祝福よりもはるかにまさる、私たちには想像もできないような大きな祝福、ということです。神様はそれほどまでに私たちのことを祝福してくださった、というのです。私たちは、この神様の恵みをしっかりと心に留めて、イエスに信頼を寄せたいと思います。そして、たとえ目の前に大きな困難が置かれるとしても、イエス様なら何とかしてくださると信じて、祈り続けてまいりましょう。
5)神は私たちの差し出す小さなものを大きく用いてくださる
次に2つ目のことは、「神は、私たちの差し出す小さなものを大きく用いてくださる」ということです。あの少年が差し出したものは5つのパンと2匹の魚でした。到底2万人のお腹を満たすことはできません。しかしイエスは、それらを大きく増やしてくださいました。私たちにできることは、本当に小さなことかもしれません。それでも神様は、私たちの手にある小さなものを差し出す時に、「それでよし。十分だ。」と言って、大きく用いてくださるのではないでしょうか。たとえ小さなものであっても、心から喜んでささげるならば、神様はそれを祝福して、大きく用いてくださるのです。このことを信じて、自分にできることをささげてまいりたいと思います。
6)時には手放すことも必要
最後に3つ目のことは、「時には、手放すことも必要」ということです。自分が握りしめているものを、神様に明け渡すことによって受ける祝福もあると思います。大人たちが皆押し黙っていた時に、あの少年は、素直に自分の手にあるものを差し出しました。手にあるものを手放して、イエス様にお任せしたのです。イエスはそれを受け取って、何千倍にも祝福されました。
私たちにも、神様の前に明け渡せないでいるものはないでしょうか。例えば、自分の中に染み付いている固定観念やこだわり、先入観、プライド、あるいは恐れといったものも、「それを手放して、わたしに委ねなさい」、「私を信じて、任せなさい」と神様は言われているのかもしれません。必死に握りしめているために神の祝福を受けられないでいる、自分の方から閉ざしている、ということもあるのではないでしょうか。思い切って神に明け渡すことで、受ける恵み、神様の祝福もあると思うのです。
私たちも、この少年のように、自分の手にある小さなものをイエス様のために喜んで差し出してまいりたいと思います。そして、大胆に神様の祝福を祈り求めてまいりましょう。