主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

列王記第二24:8-17,25:27-30 「神は見捨てない」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。」(哀歌3:22)

【礼拝メッセージ要旨】

列王記の学びも今日で最後となります。これまで列王記を通して、主に従い続けることが出来ないイスラエルの姿を見てきました。彼らは、目に見えない神にではなく、目に見えるものに拠り頼むようになっていたのです。聖書に描かれているイスラエル人の姿は、私たちの姿をも映し出しているように思います。今日の個所には、南ユダ王国がついにバビロニアによって滅ぼされる、という悲しい出来事が描かれています。神様はこの出来事をどのような思いで見ておられたのでしょうか。

1)南ユダ王国の滅亡
「エホヤキン」(8)は、南ユダの19人目の王となります。この頃には、「アッシリア」が「バビロニア」によって滅ぼされ、バビロニア帝国は西の方へと勢力を広げていました。そうした国際情勢の中で、ユダ王国もバビロニアによって度々侵略を受けることになります。「エホヤキン」の前の王である「エホヤキム」の時代に、バビロニアの王「ネブカドネツァル」がエルサレムに攻め込んで来て、エホヤキムは捕らえられ、バビロンへ引かれて行ってしまいます(第一回バビロン捕囚、BC605年)。エホヤキムに代わって息子の「エホヤキン」が王となりますが、彼も主の目に悪であることを行います。やがてバビロン軍が再びエルサレムに攻め込んで来て、エホヤキンは捕らえられ、バビロンに捕囚とされます。この時、能力のある多くの人々もバビロンに捕らえ移されました(第二回バビロン捕囚、BC597)。さらに、次に立てられた「ゼデキヤ」王の時代にもエルサレムの町はバビロンによって攻め込まれ、神殿も王宮も焼かれて、町は完全に破壊されてしまいます。残された人々もバビロンに捕囚となり、ついに南ユダ王国は滅ぼされてしまいました(第三回バビロン捕囚、BC586年)。

2)神の約束と希望
こうして、南ユダも国を失ってしまいます。これは、彼らが主を忘れ、主に背き続けたことの罪のゆえに主がなされたことでした。彼らが頼りにしていた目に見えるものはすべて取り去られてしまったのです。この悲惨な状況の中で、多くの人々は神に見捨てられたと思ったようです。果たして神は、本当に彼らを見捨ててしまわれたのでしょうか?いいえ、決して見捨てたわけではありませんでした。どうしてそう言えるのか、2つのことに目を留めたいと思います。

①一つは、「みことばによる約束」です。主は預言者イザヤを通して、前もってみ思いを彼らに伝えていました。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」(イザヤ書49:15) 主は、「どんなことがあろうとも、わたしは決してあなたを忘れない」と、約束の言葉を与えていたのです。彼らは引かれて行ったバビロンの地で、このイザヤによって語られたみことばを思い起こしたのではないでしょうか。そしてこの約束の言葉に励まされ、大きな力を受けたと思います。また、「エルサレムの町は廃墟になるけれども、復興する時が来る」という約束の言葉も与えられていました(イザヤ書44:26)。彼らはこうしたみことばに励まされ、希望を抱いて、遠い異国の地で悔い改め、神に立ち返り、信仰を守っていきました。

②もう一つのことは、「神はその約束を果たされた」ということです。その後の歴史が物語っています。BC538年、バビロニアに取って代わったペルシアの王「キュロス」の命令によって、捕囚となっていたイスラエル人たちはバビロンからエルサレムに帰って来ます。そして町を再建し、主の宮を立て直すことになります。まさに、イザヤに告げられた預言のことばが実現したのです。

 また、もう一つ目を留めたい大事なことがあります。何と、バビロンに捕囚とされていたエホヤキンが捕囚から37年目に牢獄から出され、バビロンでの高い地位を与えられます(25:27,28)。ダビデの血を引くユダの王であったエホヤキンが、異国の地で「生き延びた」のです。彼によってダビデの家系が途絶えることなく受け継がれました。そして、彼の子孫としてイエス・キリストが生まれてくることになります。(彼は「イエス・キリストの系図」に名が残されています(マタイ1:12))神は、ダビデの子孫として将来メシアを遣わす、という約束を果たされたのです。

3)神は見捨てない
この「バビロン捕囚」の出来事は、私たちにも大事なことを教えているように思います。それは「神は私たちを決して見捨てない」ということです。イスラエルの民は、何度も主に背き続けてきました。それでも主は、彼らを決して見捨てることはなさいませんでした。この試練を通して、目に見えない神に信頼することにこそ、本当の幸せがあることに彼らは気づかされていったと思います。そして主は、彼らを回復させてくださいました。

 そのように、神様は私たちのことをもあわれんで見ておられます。私たちは、私たちの造り主である全能の神様を知らずに、神様を悲しませるような生き方をしてきたかもしれません。それでも神様は、そんな私たちを本当に心配して見ておられるのではないでしょうか。「放蕩息子」の父親の姿が思い起こされます。まことの神様は、私たちがどんなに道を踏み外そうとも、決して見捨てることなく、忍耐強く待っておられるお方です。その「天のお父さん」である神様は、私たちを罪の奴隷から解放するために、大切なひとり子「イエス様」を遣わしてくださいました。イエス様は、私たちの罪を代わりに負って、十字架に向かわれました。このイエス様を心に迎え入れる時に、父なる神様のもとに帰ることができるようにされました。それほどまでに、私たちは皆、神様に愛されているのです。

 ぜひこのことを心に留めて、私たちのことを決して見放すことのないお方に、心からの信頼を寄せて歩んでまいりましょう。