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歴代誌第二33:1-20 「悪王マナセの悔い改め」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「しかし、彼は苦しみの中で彼の神、主に嘆願し、父祖の神の前に大いにへりくだり、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうしてマナセは、主こそ神であることを知った。」(歴代誌第二33:12,13)
【礼拝メッセージ要旨】
今日は、ヒゼキヤの息子であり、次の王となった「マナセ」の姿を通して、神様のなさる「赦し」ということについて思いを巡らしたいと思います。
1)マナセ王について
紀元前697年、ヒゼキヤに代わって彼の息子のマナセが南ユダの王となります。彼は、歴代の王たちの中で最も長い期間(55年間)統治しますが、信仰の面では残念な王様でした。「異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて、主の目に悪であることを行った」(2) マナセは、父ヒゼキヤが取り壊した偶像の祭壇をわざわざ築き直し、それらに仕え、主が禁じた異教の習慣をことごとく行って主の怒りを引き起こします。彼は徹底して主に背いて、偶像の神々により頼むということをしたのです。善王ヒゼキヤの息子であるはずのマナセが、正反対の方向に行ってしまいました。そんなマナセに、主は預言者たちを通して何度も警告を与えますが、彼は一向に耳を傾けませんでした。
2)マナセへの懲らしめと悔い改め
そんなマナセが、ある時大きな試練に見舞われます。アッシリアの軍隊によって捕らえられ、遠いバビロンへと連れて行かれます。それは、主の警告を聞こうとしないマナセへの「懲らしめ」として、主が与えた大きな試練でした。王の権威も、偶像の神々も何の役にも立ちません。彼はすべてを失い、この苦しみの中にしばらく置かれます。しかし、この苦しみの時が彼にとって恵みの時とされていきます。この苦しみの中で、彼は初めて主を呼び求めました(12,13)。「主に嘆願し、大いにへりくだり」(12) 彼は悔い改めの祈りをささげます。そのマナセの切なる祈りを主は聞いておられました。そして彼をバビロンから解放し、ユダへと戻されました。「こうしてマナセは、主こそ神であることを知った」(13) この大きな試練を通して、彼は初めて主こそ生きて働かれる本当の神であることを知ったのです。ルカ15章に出てくる「放蕩息子」の姿に重なります。私たちもこのマナセのような者であり、放蕩息子であったのではないでしょうか。
その後マナセは、ユダの町々の守りを固め(14)、主への悔い改めを行動で示します(15,16)。主の宮に自分が置いていた偶像の神々を取り除き、主の祭壇を築き直して主への礼拝を再開したのです。父ヒゼキヤが行ったように主に仕える者へと変えられていきました。
3)悔い改めの理由
では、彼はどうして悔い改めることが出来たのでしょうか。その理由として、2つのことに目を留めたいと思います。
①一つは、「主が与えられた「懲らしめ」のゆえに」ということです。主の警告に聞こうとしないマナセに対して、主は懲らしめ(試練)を与えました。主は、私たちのために懲らしめ(試練)を与えることがある、ということを心に留めたいと思います。神は、私たちを鍛えるため(成長させるため)に試練(懲らしめ、訓練)を与えられます(ヘブル12:11)。マナセも、この懲らしめを通して、主こそ神であることを知ることが出来ました。
②もう一つのことは、「父ヒゼキヤの祈りによって」ということです。マナセの父であるヒゼキヤは、愛する息子マナセのためにいつも祈っていたのではないでしょうか。主を受け入れようとしないマナセのかたくなさを心配して見ていたことでしょう。やがてヒゼキヤは召され、彼は自分のやりたいように生きました。己の力に頼り、富と繁栄を求めて偶像の神々に仕えたのです。そんな時にあの困難の中に置かれます。そして、自分ではどうすることもできなくなった時に、父親から教えられてきた主のことを思い起こすことが出来たのではないでしょうか。まさに、あの「放蕩息子」の姿です。苦しみの中で、彼が初めて主を呼び求めた時、主は、父ヒゼキヤの長年積まれてきた祈りに答えて、マナセの罪を赦し、彼の願い聞いてくださいました。「蒔かれていた種」があったのです。私たちも、家族や周りの人たちのために祈り続けたいと思います。
4)主の忍耐と赦しについて
こうして主は、悔い改めたマナセの祈りに答えて、彼を困難から救い出してくださいました。主は、あれほど主に背き続けたマナセの罪を赦されたのです。ここに、「主の忍耐とあわれみ」が現わされています。
ところで、「マナセ」という名前には「忘れる」という意味があります。この名前の通り、主はマナセの大きな罪を「忘れて」くださいました。最後に、この「マナセ」という名に込められている「赦し」について考えてみたいと思います。「マナセ」という名前は、ヤコブの息子ヨセフが自分の息子につけた名前に由来しています。兄たちにねたまれ、エジプトに売られ、理不尽な人生を送ったヨセフは、その後エジプトで大臣になり、兄たちと再会した時に彼らを赦しました。「マナセ」(忘れる)には、そんなヨセフの思いが込められているように思います。それまでの苦しみも、兄たちに対する怒りや憎しみも、主は「忘れさせて」くださったのです。
「赦す」という言葉には、「運び去る」という意味があります。神が罪人から罪を「運び去って」くださるということです。神様は、イエス様の十字架の死を通して、それを信じる私たちの罪を忘れて(赦して)くださいます。私たちの罪がイエス様に移されて、処罰されたのです。これが、神様が私たちのためになしてくださった「罪の赦し」です。私たちは、自分ではどうすることもできない大きな罪を赦していただきました。
5)人の過ちを「忘れる」者となる
私たちはどうでしょう?私たちは、人からされたことはなかなか忘れることが出来ません。いつまでも覚えていて、心の中で「絶対に赦せない」と思っていることもあるかもしれません。自分の力で「人を赦す」ことは難しいことです。「愛は~人がした悪を心に留めず」(コリントⅠ13:5)イエス様の愛が本当に分かる時に、このことが実践できるようにされるのではないでしょうか。
神様はイエス様の十字架の愛によって、私たちの罪を赦してくださいます。このことを覚えて、私たちも「大きな罪を赦された者として」、人を赦す者となりたいと思います。