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列王記第二17:1-6,21-23 「神の義と神の愛」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって 神の愛が私たちに示されたのです。」(ヨハネの手紙第一4:9)
【礼拝メッセージ要旨】
今日の箇所には、北イスラエルの滅亡と捕囚の出来事が記されています。イスラエルは、神に愛され、あわれみを受けてきたはずなのに、なぜ国を失うことになってしまったのでしょうか。
1)北イスラエルの滅亡
当時、イスラエルの東側にあった大国アッシリア帝国は、西の大国エジプトと覇権争いを繰り広げていました。そうした状況の中で、北イスラエルにホセアという王が立てられます。アッシリアに北イスラエルに攻め込んできた時、ホセアはアッシリアの王に貢ぎ物を送りますが、やがてエジプトに助けを求めていたことが知られ、彼は捕らえられてしまいます。そうしてサマリアの町は3年間アッシリアに包囲されたのち、紀元前722年に陥落し、人々はアッシリアに捕囚となり、北イスラエルは国を失ってしまいます。
2)滅亡の理由
北イスラエルはどうして滅ぼされてしまったのでしょうか。その理由は、「彼らが主に対して罪を犯した」からでした(7,8)。彼らは、彼らをエジプトから救い出したイスラエルの神である主を忘れ、人の手によって造られた偶像の神々に仕えました。それは、主がモーセを通して彼らに与えた戒めである律法に固く禁じられていたことです(十戒の第1,2戒)。彼らがこれらの律法に聞き従うなら「祝福」を、聞き従うことができなれければ「のろい」を与えると主は言われました。彼らは律法を守ることを神に誓ったにもかかわらず、その戒めを守り通すことができなかったのです。特に、イスラエルが北と南に分裂し、北イスラエルにヤロブアムが立てられた時から、その罪は甚だしくなっていきました(21~23)。そのように、彼らが主と交わした契約を破ったことに対する罰として、主が約束された通り「のろい」(契約違反としてのさばき)を受けることになりました。それが、アッシリアによる北イスラエルの滅亡と捕囚という出来事でした。さらに、約130年後、南ユダもバビロニア帝国によって同じように滅ぼされてしまいます。
こうしたイスラエル人の姿は、私たち人間の姿をそのまま映し出しているように思います。人は、自分の力によっては神の前に正しく生きることが出来ません。「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)とある通り、人は生まれながらにして「不義」な者だというのです。
主はイスラエルを「御前から除かれた」とあります(23)。主は、悔い改めないイスラエルを愛することをやめてしまわれたのでしょうか?決してそういうことではありません。主は、イスラエルを変わることなく愛しておられました。どうしてそう言えるのか、2つの点から考えてみたいと思います。
3)神は義なるお方
一つは、「神の義」ということです。人は生まれながらにして「不義」ですが、人を造られた神様は「義」なるお方(完全に正しいお方)です。神が義であるということは、具体的にどういうことを言っているのでしょうか。
一つは、「約束を守られる」ということです。神様は、約束されたことを必ず守られるお方です。神はアブラハムに対して「わたしはあなたとあなたの子孫を祝福し、地のすべての部族もあなたによって祝福される」(創世12章)と約束されました。また、ダビデ王に対しては「あなたの子孫からメシヤが立てられて、彼によって永遠の王国が確立される」(サムⅡ7章)という約束が与えられました。この約束は、ダビデの子孫としてイエスが来られたことで成就しました。このように、神はイスラエルをメシヤによって祝福する、そしてそのメシヤによってイスラエルでない異邦人も、信仰によってその祝福にあずかるという約束を与えられたのです。私たちも、イエス様を信じる信仰によって神様に受け入れられるようにされました。
もう一つのことは、神は「不義を見過ごすことが出来ない」(決して罪とは妥協されない)ということです。神様は正しいお方なので、罪は処罰されなければなりません。この義のために、律法を守り行うことができなかったイスラエルは、律法違反の罰として国を失うことになりました。同じように、人の罪もさばかれなければなりません。神の義の要求が満たされるためには、罪のある私たち人間は、本来裁かれる運命にあったのです。しかし神は、私たち人間が罪のゆえに滅んでしまうことを望まれませんでした。
4)神は愛なるお方
そこでもう一つ目を留めたいことは、「神の愛」ということです。神は義なるお方であり、同時に愛のお方でもあります。神は、私たち人間を愛されました。そして彼らを罪の滅びから救いたいと願われました。しかし、神の義のゆえに罪は処罰されなければなりません。そこで神様がなされたことは、「罪のないお方を私たちの代わりに処罰する」ということでした。これがイエス・キリストの十字架の出来事です。父なる神様は、神のひとり子であるイエスをこの世界に遣わされました。イエスは十字架で、すべての人の罪をその身に負って神のさばきを受けられました。本来私たちが受けなければならなかった罪に対する刑罰を、イエス様が代わりに受けてくださったのです。このことによって、私たちの罪に対する神の義の要求が全うされました。「不義」な私たちを、イエスの十字架の贖いのゆえに「義」と認めてくださるというのです。ただ、神の「恵み」によることです。ここに、私たちに対する神様の大きな愛が現わされています(ヨハネⅠ4:9)。
イスラエルに対しても同じように神の愛が注がれています。神がアブラハムに与えた祝福の約束は今も有効に生きています。イスラエルもやがてイエスを受け入れて、救われる時が来るのではないでしょうか(ローマ11章)。
私たちはこれほどまでに愛されています。この恵みを決して忘れることのないようにしたいと思います。そして、どこまでもイエス様にお従いしてまいりましょう。