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列王記第二5:1-19 「信じてゆだねる信仰」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)
【礼拝メッセージ要旨】
預言者エリヤからエリシャへとバトンが渡され、その後エリシャは多くの奇跡を行います。今日はその中の一つ、「ナアマン将軍のいやし」の出来事に目を留めたいと思います。
1)ナアマン将軍の病とエリシャとの出会い
アラムの将軍ナアマンは、非常に有能な人物で、王に重んじられ尊敬されていました。主は、このナアマンに目を留めておられたようです。しかし、彼には一つ大きな悩みがありました。「ツァラアト」(重い皮膚病)に冒されていたのです。彼は大きな「重荷」を負っていました。ある時、主人の苦しみを見て、彼の家で奴隷として仕えていたイスラエルの娘が、イスラエルにいる一人の預言者のところに行けばきっと治してくださるでしょうと進言します。これを聞いてナアマンは、アラムの王にイスラエルに行く許可を求めます。王は快く受け入れて、イスラエルの王宛ての手紙を持たせて彼を送り出し、そうしてエリシャの家まで導かれてきました。エリシャのことなど全く知らなかったアラム人の将軍ナアマンが、ツァラアトにかかったことを通して、エリシャに出会うことになったのです。ここに、神の不思議な導きがあったように思います。
2)ナアマン将軍のいやし
エリシャの家の戸口に立つナアマンに、エリシャは人を遣わして、ヨルダン川へ行って7回身洗うようにと伝えさせます(10)。そうすれば、元通りになってきよくなるというのです。これを聞いて、彼は「激怒」します。そして、エリシャの家から去ってしまいました。
彼はなぜ激怒したのでしょうか。その理由として3つ挙げたいと思います。
①まず、「自分がないがしろにされた」と感じたからです。エリシャが自分に会いもしないことに腹を立て、「彼はアラムの将軍である自分をないがしろにした」と感じたようです。ナアマンのプライドが傷つきました。
②2つ目は、「自分がぞんざいに扱われた」と思えたからです。ナアマンは、エリシャが自分の患部に手を置いて、祈りながら手を動かして、治してくれるものと思っていました。ところが、ただ言葉で命じただけでした。「軽くあしらわれた」、「ぞんざいに扱われた」と感じたようです。
③そして3つ目は、「そんなことで治るはずがない」という思い込みがあったからです。川に7回身を浸すだけで治るなんてありえない、と思ったようです。しかも、イスラエルのヨルダン川です。こんな汚い川で体を洗って治るはずがないと思い込んでいたのです。
そうした「思い込み」や「プライド」があったために、彼はエリシャのことばを素直に聞くことが出来ませんでした。私たちも、そうした「自分の思い込みやプライド」が邪魔をして、人の言葉に素直に聞けなかったり、みことばにも聞くことが出来ない、ということもあるのではないでしょか。
そうして、怒ってアラムに帰って行こうとするナアマンを見て、彼のしもべたちは、「もしあの預言者が何か難しいことを命じていたら、従ったのではないですか」と問いかけます。この進言を聞いて、ナアマンは思い直します。エリシャに命じられた通り、ヨルダン川に行って7回身を浸しました。すると、彼のツァラアトはすっかり消えて、元通りきれいな肌に戻っていました。彼は「きよく」されました。神の「奇跡」が起こったのです。
3)信仰による応答
これを見たナアマンは、エリシャのもとに引き返します(15)。そして、「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました」と告白して、エリシャに感謝の贈り物を渡そうとしました。彼の心には、ツァラアトがいやされたこと以上に大きな喜びがありました。それは、「生きて働かれるまことの神がおられる」ということを知った喜びです。自分の身に起こった奇跡を体験して、「生きて働かれる神がここにおられる」と確信することが出来たのです。彼は、この「まことの神」を信じました。そして、信仰によって応答します。アラムで主に礼拝をささげるためにイスラエルの「土」を与えてくださいと願い、「これからは、主以外の神々にはいけにえをささげません」と信仰を表明しました。また、自分の立場上、アラムの王がアラムの神に礼拝をささげる時に、王を支えるために一緒にひれ伏すことを赦してほしいと願いました。このナアマンの信仰の表明と願いを聞いて、エリシャは「安心していきなさい」と告げました。
4)信じてゆだねる信仰
最後に、この個所から教えられることとして2つのことに目を留めたいと思います。一つは、「信じてゆだねる信仰」ということです。ナアマンの信仰は、彼が「ゆだねる」ことから始まりました。自分の中にあった「思い込み」や「プライド」を手放して、そのことばを信じてゆだねた時に神のみわざがなされました。そのように、ある意味で、「信仰」とは「信じてゆだねること」と言えると思います。もちろん、「救い」は神の主権によってなされることですが、人の側には神の言葉を信じて「ゆだねる」ことが求められていると思います。「ゆだねる」とは、神の言葉を「受け入れる」ことであり、同時に、自分の中にあるものを「手放す」ことでもあると言えます。また、「ゆだねる」とはただ受け身でいることでもありません。自分のなすべきこともあると思うのです。具体的には、イエスの教えである「神を愛し、人を愛する生き方」を普段の生活の場で実践していくことです。
5)イエスは私たちを招いておられる
もう一つ目を留めたいことは、「イエスは私たちを招いておられる」ということです。ナアマンは、人生の大きな「重荷」を負っていました。自分の力では決して解決できない「重荷」です。そんなナアマンに神は目を留められました。様々な人たちを通してエリシャに出会い、生きて働かれるまことの神に出会うことが出来たのです。その背後には神の導きの御手がありました。そのように、イエス様はすべての人を救いへと招いておられます。「すべて人生に疲れた人、人生の重荷を負って苦しんでいる人は、わたしのもとに来なさい。」と招いておられます(マタイ11:28)。イエス様は、「わたしがあなたがたを休ませてあげます」と約束されました。イエスのもとに来る時に、人は「本当の休息」と「心の安らぎ」をいただくことが出来るのです。どうしてそう言えるのでしょうか。イエスがあの十字架で、私たちの罪の重荷を一切、代わりに負ってくださったからです。それゆえに、イエスを心に受け入れる時に、どんな重荷も軽くされるのです。
このことを覚えて、私たちの人生を共に歩んでくださるイエス様に、一切をおゆだねして歩んでまいりましょう。