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マルコの福音書9:30-37 「だれが一番偉いか」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」(マルコの福音書9:35)
【礼拝メッセージ要旨】
イエスは、「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」と弟子たちに教えられました。これはどういうことを意味しているのでしょうか。
1)イエスの受難の予告
弟子たちは、イエスが多くの奇跡を行う姿を間近で見ていて、このお方は昔から約束されてきたメシアであり、この国をローマから解放する王となる方に違いないという期待を抱くようになりました。一方でイエスは、「自分は多くの苦しみを受け、人々に捨てられ殺される。そして三日後によみがえる。」という受難の予告もしておられましたが、弟子たちはその意味が一向に理解できないでいました。むしろ、イエス様が王となられたあかつきには、自分たちも一緒にこの国を治める者となるだろうという野心もあったようです。
2)だれが一番偉いか
カペナウムへの道の途中で、弟子たちは「自分たちの中でだれが一番偉いか」論じ合っていました。「偉い」と訳されている言葉には、「大きい」という意味があります。彼らは、自分たちの中で、だれが「大きい者」であって、リーダーとしてふさわしいか論じ合っていたのです。おそらく、「自分こそ能力があって、みんなから認められるようなリーダーにふさわしい者だとか、あいつよりは上だろう」というような思いがあったと思われます。私たちも、つい人のことが気になって、人と比べてしまうということがあるのではないでしょうか。人よりも少しでも上だと思えば安心し、下だと感じると不安になったりします。
3)皆に仕える者になりなさい
イエスは、そんな弟子たちの思いもすべて分かっておられて、「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」と言われました。世の中の価値観とは、全く逆のように思えることです。「仕える」と訳されていることばには、「給仕をする」という意味があります。主人の食事のときにその家の奴隷がそばに控えていて、食事のお世話をする姿です。そのように「仕える」とは、奴隷のように身を低くして人に仕えることを意味しています。但し、イエスが言われたことは、我慢していやいやながら強いられてすることではありません。義務的にでもなく、何か見返りを期待してすることでもありません。「自発的に、喜んで人のために仕える」ということです。例えば、何か小さなことでも、誰かに喜んでもらいたいと願って心から行うことができたら、イエスの言われる「人に仕える」ことと言えます。弟子たちが思い描いていた「偉い人」(大きい者)とは、全く違う姿です。
4)「小さい者」を受け入れる
さらにイエスは、そこにいた一人の子どもを腕に抱いて、「このような子どもたちの一人を受け入れなさい」と言われました(37)。当時のユダヤ人社会では、「子ども」は「価値のない者」、「役に立たない者」とされていました。子どもは、「最も小さい者」として見られていたのです。しかしイエスは、その「小さい者たち」に目を向けて、彼らを「受け入れなさい」と言われたのです。「受け入れる」とは、「差別したり、偏見を持たないで、相手のことを尊重する(リスペクトする)」ということであると思います。どんな人のことでもリスペクトすることです。たとえ尊敬できないと思えるような人や、自分にことごとく反対するような「嫌な人」であっても、考え方や立場の違いがあることを認めて、相手を尊重しなさい、とイエスは言っておられるように思うのです。これも、「人に仕える」ということではないでしょうか。
5)「仕える者」となるために
イエスは、私たちにも「皆に仕える者になりなさい」と言っておられます。それはそう簡単なことではありません。私たちの中には自己中心の思いがあるからです。では、私たちが心から「人に仕える者」となるために、どうすればいいのでしょうか。「わたしの名のゆえに受け入れる」(37)ここにヒントあります。これは「自分の力によってではなく」、「イエスの愛を覚えて」ということです。自分の力でがんばって人に仕えようとしても限界があります。しかし、イエス様の姿を思い起こすならば、そうできるようにされるのではないでしょうか。イエス様は、まさに「皆に仕える者」となってくださいました。神であられる無限で偉大なお方が、私たち人間を罪の奴隷から救い出すために、限界のある人となってこの世界に降りて来てくださいました。イエス様は、人々の病をいやし、寄り添い、そして最後は十字架ですべての人の罪を代わりに負って、いのちをささげてくださいました。神はそれほどまでに私たち人間を愛してくださったのです。このイエス様の姿こそ、まさに、「皆の後になり、皆に仕える者」の姿でした。イエス様は、私たちを愛し、私たちに仕える者となってくださいました。このことを思い起こすときに、「神に愛され、仕えられた者」として、私たちも喜んで「人に仕える者」となれるのではないでしょうか。この恵みをしっかりと心に留めて、忘れないでいたいと思います。
インドの貧しい人たちのためにその生涯をささげた「マザー・テレサ」の姿を思い起こします。彼女は、カルカッタのスラム街に移り住んで、「死を待つ人々の家」というホスピスを開設し、誰にも目を留められずに死にゆく人々を見つけては、施設に連れて来て丁寧に介抱し、最後までケアをするという活動を続けました。彼女はまさに、イエスが言われた「皆に仕える者」となり、「小さいものを受け入れる者」となったのだな、と思います。彼女を駆り立てたものは「イエスの愛」でした。
イエス様に愛されていることを覚えて、私たちも、喜んで「人に仕える者」、「人を受け入れる者」となりたいと思います。