主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

マルコの福音書8:34-38 「自分の十字架を負う」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マルコの福音書8:34)

【礼拝メッセージ要旨】

イエスの受難予告を理解できないでいた弟子たちに対して、イエスはイエスの弟子としての覚悟を求めます。「イエスに従う」とは、どういうことなのでしょうか。

1)自分を捨てるとは?
その後イエスは、群衆と弟子たちを呼び寄せて大事なことを告げられました。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(34) 本当にわたしの弟子となりたいと願うのであれば、この覚悟を持ってわたしに従って来なさいと言うのです。ここに2つのことが示されています。「自分を捨てる」ことと、「自分の十字架を負う」ことです。

では、「自分を捨てる」とはどういうことでしょうか。2つの大きな意味があるように思います。一つは、「自己中心的な生き方を捨てること」です。利己的な思いを手放すことです。私たちは、いろんな思いや信念や価値観を持っていて、自分は絶対に正しいと思い込んでしまうことがあります。しかし私たちは、自分の思いや身に着いた生き方を手放すことがなかなかできません。イエスは、まずそうした自分中心の生き方を手放しなさい、と求めておられます。

もう一つの意味は、「自分自身をイエスに明け渡すこと」です。それは、キリストのご支配に自分をゆだねていくことです。かつて罪に支配されていた古い自分は、イエスとともに十字架につけられて死んで、そしてイエスとともに生きる者とされたことを覚えて、イエス様のご支配にすべてをゆだねることです(ガラテヤ2:19,20)。困ったときや都合の良いときだけ、イエスに助けを求めるということをしてはないでしょうか。いつもイエス様が自分の真ん中にいてくださるように願い、イエス様に明け渡していきましょう。

2)自分の十字架を負うとは?
次に、「自分の十字架を負う」とはどういうことを言っているのでしょうか。「十字架を負う」という表現は、罪や苦難を身に受けることを表わすたとえとして一般的にも耳にすることがあります。しかし、イエスが「自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」と言われたことはそういうことではありません。当時、「十字架」とは、ローマ帝国が大きな罪を犯した犯罪人に対して課した処刑方法を意味していました。死刑判決を受けた囚人は、自分がつけられる十字架の横木を背負って処刑場まで歩かされ、生きたまま十字架に釘付けにされました。それは非常に残酷で、恐ろしいものでした。イエスが、「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われたとき、誰もが「十字架は自分には関係のないこと」と思ったはずです。

 では、「自分の十字架を負う」とは、何を意味していたのでしょうか。2つのことを挙げたいと思います。1つは、「自分の負うべき十字架がある」ということです。これは文字通り、犯した罪に対する刑罰としての「十字架」のことです。聖書は、「すべての人は、生まれながらにして神を知らずに、神に背いて生きている」と明確に語っています。例外なく、すべての人は神の前に「罪人」であるというのです(ローマ3:10)。私たちは本来、あの十字架刑以上の刑罰を受けなければならないような罪人なのです。つまり、「自分の十字架を負う」とは、神の前には自分はどうしようもない罪人であることを素直に認めて、そのことを忘れない、ということではないでしょうか。私たちには、「自分が負うべき十字架」がある、ということです。しかし、イエスを信じる者はその刑罰を受ける必要はありません。なぜならば、イエスが私たちに代わって、あの十字架で、私たちの罪に対する神の刑罰を受けてくださったからです。それは、ただ1回限りの完全な贖いでした。これが「福音」です。

2つ目のことは、「イエスに従うことで受ける苦しみもある」ということです。「十字架」は、「苦しみ」をも意味していました。イエスに従うことには、苦しみも伴います。それでもわたしについて来るか、その覚悟を持ってついて来なさいと、イエスは問われたのでないでしょうか。イエスを信じて従い続けることは、決して楽なことではありません。もちろん、イエスがいつもともにいてくださるという喜びがあります。イエスは、みことばを通して生きる力を与えてくださいます。それは本当に大きな恵みです。一方で、イエスに従うことは、自分の中にある罪と戦うことでもあるのです。さまざまな誘惑もあり、あえて困難な道を行くことになるかもしれません。イエスを信じて救われれば、すべて自分が願ったように順調に行くのではありません。苦しみも受けるのです。

3)永遠のいのちの希望
そうすると、クリスチャンとして生きることは、辛く苦しい「イバラの道」を歩んで行くことなのでしょうか。決してそうではありません。確かに苦しみもありますが、それにはるかにまさる大きな恵みがあるのです。イエスは、この地上でどんな富や名誉を受けたとしても、自分のいのちを失ったとしたら、何の益にもならない、と言われました(35~37)。イエスに従うことによって神のものとされるなら、神様との関係の中で永遠に生きることになります。「永遠のいのち」の希望が約束されているのです。それは、この世で受けるどんなものよりも、はるかに大きな恵みであり、喜びとなることです。やがてイエスが再びこの世界に来られるとき、私たちが地上でどのように生きたか問われます。もしイエスとイエスのことばを恥じるようなことがあれば、イエスはその人を恥じるというのです(38)。「残念です」と言われる、ということでしょうか。そうではなくて、「よくやった。忠実な良いしもべだ。」(マタイ25:21)と言っていただきたいなと思います。

そのためにも、今日の34節のみことばをしっかりと心に留めたいと思います。そして、「自分を捨て、自分の十字架を負って」イエス様に従い続けてまいりましょう。