主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

マルコの福音書8:27-33 「あなたはキリストです」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(マルコの福音書8:29)

【礼拝メッセージ要旨】

今日の個所には、イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしをだれだと言いますか」と問いかけている姿が描かれています。私たちにとって、イエス様はどういうお方なのでしょうか。

1)人々はわたしをだれだと言っているか?
その後イエスは、弟子たちを連れて「ピリポ・カイサリア」地方へと向かわれます。その途中、イエスは弟子たちにこう尋ねられました。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」弟子たちはイエスに答えました。「バプテスマのヨハネだと言う人もいれば、エリヤだと言う人もいます。また、預言者の一人だと言う人たちもいます。」人々はイエスのことを神から遣わされた預言者として見ていたことが分かります。民衆はイエスのことをあくまでも「人」として見ていたのです。

2)あなたがたはわたしをだれだと言うか?
するとイエスは、今度は弟子たちに対してこう尋ねます。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」彼らはそれぞれイエスに呼ばれ、一緒に生活をしながらイエスの教えを聞き、イエスのなさる数々の奇跡をそばで見てきました。イエスがただの預言者ではない、それ以上のお方であることは分かっていたでしょう。そのときペテロは「あなたはキリストです。」と答えました。「キリスト」とは、ヘブル語の「メシア」をギリシア語に訳した言葉で、「油注がれた者」という意味があります。神から特別な職務に任命された者、ということです。そこから、キリストという言葉は、神によって立てられた「救い主」(メシア)を意味する言葉として用いられるようになりました。イスラエルの人々は、いつかこのメシアが来られて、イスラエルを困難から救い出してくれると期待していたのです。ペテロがイエスのことを「キリスト」(メシア)だと答えたことは間違ってはいません。しかし彼はイエスのことを完全に理解していたわけではありませんでした。彼は、「キリスト」は「ダビデのような王となるお方」というイメージを持っていたようです。イスラエルにやがて力強い王となるお方が起こされて、かつてのダビデ王国のように再建されることを人々は期待していました。そんなダビデ王のようなメシア像を、民衆もイエスの弟子たちも思い描いていたようです。ペテロの答えを聞いてイエスは、自分のことをだれにも言わないように彼らを戒めました。

3)苦しみを受けるメシア
そうしてイエスは、それまで秘めていた大事なことを弟子たちに教え始められます。何と「人の子は多くの苦しみを受け、ユダヤ人の宗教指導者たちから捨てられ、殺される」というのです(31)。苦しみを受けるメシアの姿です。イエスは初めて弟子たちに「受難」の予告をなさいました。「人の子」というと、ダニエル書7:13に描かれているこの世界を治める力強い「主権者」(さばき主)としてのメシア像を人々は思い描いたようです。しかしイエスは、それに加えて「苦しみを受け、捨てられ、殺される」メシアの姿を示しました。イザヤ書53章に描かれている「苦難のしもべ」としての姿です。当時のユダヤ人にとって、「受難のメシア」は考えられないことでした。しかしイエスは、このことをはっきりと話されたのです。

4)下がれ、サタン
では、このメシアの受難の予告を弟子たちはどう受け止めたでしょうか。「するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」(32) ペテロは、「メシアにそんなことがあってはならない」と思い込んでいたようです。弟子たちにとって、苦しみを受けるメシアは到底受け入れがたいことでした。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(33)イエスは「あなたは人間的な思いでわたしのことを見ている」と言われたのではないでしょうか。弟子たちは、「自分たちにとって都合の良いように」イエスのことを見ていました。彼らは、イエスがやがてイスラエルの王となってこの国をローマの支配から解放してくれる、偉大なお方であると信じていたようです。さらには、自分たちもこのお方と一緒にこの国を治める者となれる、そんな野望も抱いていたようです。彼らは大きな「思い違い」をしていたのです。そんな彼らにイエスは、キリストである自分は必ず苦しみを受けて、それからよみがえらなければならないと、この後起こる「十字架と復活」について予告しました。

5)私たちはイエスをだれだと言うか?
では、私たちはイエス様のことを誰だと言うでしょうか。私たちも、この弟子たちと同じような「思い違い」をしていることもあるかもしれません。イエス様のことを「自分にとって都合の良いようにだけ」理解し期待をかけている、ということはないでしょうか。例えば、「イエス様は、私のことだけを見てくださっている」と思い込んでしまうことです。もし、イエス様がいつも私の願いを聞いてくださり、困難に会わないように守ってくださり、どんな困難からも助け出してくださり、豊かに恵みを注いでくださるはずだと信じるとしたら、それは正しくはありません。願っていないように導かれることや、思いがけない困難(試練)の中に置かれることもあります。私たちには理解できないことや、納得できないこともあるのです。なぜならば、神のみ思いは私たちの思いをはるかに越えて高いところにあるからです。それでも、イエス様は私たちを決して見捨てることなく、私たちをこよなく愛しておられます。私たちは、この信仰にしっかりと立ちたいと思います。

 一つしっかりと心に留めたいことは、イエス様は「この私の罪のために、人々に捨てられ、十字架で苦しみを受けられた」ということです。イエス様は、私たちの罪を代わりに負って、その罪の償いをするために、十字架で苦しみを受けられました。イエス様は、それほどまでに私たちのことを愛してくださいました。この「十字架の愛と恵み」を決して忘れないようにしたいと思います。

イエス様は、私たちの罪のために十字架で苦しみを受け、死なれ、罪と死に打ち勝ってよみがえられたお方です。この「私たちの罪からの救い主」となられたイエス様を見上げながら、ともに歩んでまいりましょう。