主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

マルコの福音書8:1-21 「まだ悟らないのですか」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(ヨハネの福音書6:51)

【礼拝メッセージ要旨】

今日の個所には、「パン」と関係のある一連の3つの出来事が記されています。これらのことを通してイエスは、肉の糧であるパンよりも大事なパンがあると教えています。

1)4千人の給食
まず、8:1~10節には、デカポリスの地でイエスのもとに集まった4千人の群衆にパンを食べさせる、という出来事が描かれています(4千人の給食)。これと全く同じような状況が以前にもありました(マルコ6章、5千人の給食)。場所と数は微妙に違いますが、ほぼ同じようなことがなされています。では、この同じような2つの出来事がなぜ6章と8章それぞれに記されているのでしょうか。まず考えられることは、イエスがこの地の人々のことをもイスラエルの人たちと同じように「かわいそうに思われた」ということです。イエスは、助けを求めて集まった人たちをユダヤ人も異邦人も分け隔てなく、あわれに思われて同じように取り扱ってくださいました。もう一つの理由は、弟子たちのためにです。イエスは、同じ奇跡を繰り返し示すことで、弟子たちにご自分がメシア(救い主)であることを分からせようとされたのではないでしょうか。群衆を前にしてイエスが「彼らは食べる物をもっていないのです」と言われたとき、弟子たちは「それは無理です」と、前回と全く同じように答えました。彼らは、イエスの5千人の給食の奇跡をすっかり忘れ、「パンがない」という目の前の現実しか見ていませんでした。彼らは未だに、イエスが神ご自身(メシア)であることが分かっていなかったのです。イエスは4千人の給食を通して、繰り返し、弟子たちにご自分が誰かを示そうとされたのではないでしょうか。

2)パリサイ人たちの試み
その後イエスは、弟子たちと舟に乗って、ダルマヌタ地方(ユダヤ人の地)に行かれました。するとそこに「パリサイ人」たちがやって来て、イエスと議論を始めました。彼らはイエスに「天からのしるし」を求めます。イエスがキリスト(メシア)であることを証明できるような奇跡を行って見せよ、と求めたのです。彼らはイエスがこれまでも多くの奇跡を行ってきたことを知っていたにもかかわらず、一向にイエスを信じようとはしませんでした。彼らの中にイエスはキリストではないという先入観があったからです。イエスは、そんな彼らの心もすべて分かっておられて、心の中で深くため息をつかれ(ご自分の霊においてうめかれ)ました。彼らの心が堅く閉ざされていることを深く「あわれまれた」のです。彼らは「心の目と耳」がふさがれていて、イエスを見てもイエスのことばを聞いても、イエスがキリストであることを受け入れることが出来ませんでした。

3)悟れない弟子たち
そうしてイエスは彼らから離れ、再び舟に乗って、向こう岸へと行かれました。その船の中での弟子たちのやり取りが、14~21節に描かれています。弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中にはパンが一つしかありません。そのときイエスは、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」(15)と言われました。「パン種」とは、パンを膨らますために入れる古いパン生地のように、全体に大きな影響(悪い影響)を与えるものという意味です。「パリサイ人のパン種」とは、「形だけの行いによる信仰」のことで、「ヘロデのパン種」とは、「世俗主義」のことを指しています。それらは両極端と言えるかもしれません。私たちも気を付けたいことです。あまり熱心になりすぎて、現実的なことを無視してしまったり、家族や社会に仕えることを軽んじるようなことがあってはならないと思います。そのバランスを保ちながら、今私たちが置かれているところで、神様を大切にしながら、周りの人々に仕えていきたいと思います。

 弟子たちは、イエスのこの言葉の意味を理解することが出来ませんでした。自分たちがパンを忘れたことをイエスが非難されていると勘違いし、お互いに非難し合ったようです。そんな彼らにイエスは、「まだ分からないのか」、「悟らないのか」、「心を頑なにしているのか」と言って、彼らの頑なさを責めています。「目があっても見えないのですか」、「耳があっても聞かないのですか」と問われたのです。ここに、イエスの、弟子たちに対する熱い思いが感じられます。イエスはそれほど弟子たちのことを思い、愛しておられました。イエスは彼らに、ご自分が誰であるかを伝えようとされたのです。それでも彼らは、イエスが神ご自身であり、神から遣わされた救い主メシアであることがまだ分かっていませんでした。彼らはイエスと一緒にいながらも、目の前のパンだけを見て、「これしかない」と思い煩っていたのです。

4)いのちのパンであるイエス
私たちも、パリサイ人たちや弟子たちと同じような者なのかもしれません。いつしか自分の力に頼り、形だけの信仰になっていたり、目の前の現実の問題に心を奪われて思い煩い、イエス様が見えなくなっている、ということはないでしょうか。そんな私たちにも、「まだ悟らないのですか」(わたしのことが本当に分かっていますか?)とイエスは問いかけておられるように思うのです。

 「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(ヨハネ6:51) これはイエスが、5千人の給食の出来事の後、イエスのあとを追って来た群衆に対して言われた言葉です。またパンがもらえると期待していた人々に、決してなくなることのない、「永遠のいのち」に至る食べ物があると言われました。イエスこそが、永遠のいのちを与えることのできる「いのちのパン」なのだと教えています。「永遠のいのち」とは、造り主である神様との関係が回復されて、その交わりの中に入れられて永遠に生きることを意味しています。それは、この世でどんなに大きな富や名誉を受けることよりも、はるかに価値のあるすばらしい恵みです。神様は、この「生けるパン」であるイエス様を、私たちに与えてくださいました。そして、このイエスを信じて心に迎えなさい、いのちのパンを食べなさい、とすべての人に求めておられるのです。

私たちは、このことばを「その通りです。アーメン」と言ってしっかりと受け止めたいと思います。そして、感謝をもっていのちのパンであるイエス様を心にお迎えし、一生涯イエス様を味わい続けてまいりましょう。