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マルコの福音書7:14-23 「汚れは心の中から」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出てきます。」(マルコの福音書7:20,21)
【礼拝メッセージ要旨】
先週の個所のパリサイ人たちとのやり取りのあと、イエスはさらに「汚れとは何か」ということについて教えています。
1)すべての食物はきよい
イエスは、パリサイ人たちとのやりとりのあと、群衆を再び呼び寄せて、「外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」と言われました。このたとえの意味について尋ねた弟子たちに対してイエスは答えています。このところから、イエスが教えられたこととして、2つの点に目を留めたいと思います。
まず1点目のことは、「すべての食物はきよい(汚れてはいない)」ということです。「律法」の中に、例えばレビ記11章には「食べてもよいきよい生き物」と「食べてはいけない汚れた生き物」のリストが記されています。このところから、パリサイ人たちは食べてはいけない「汚れた食物」に特に気を付けるようになったようです。「汚れ」は、外から入って来るもの、という意識が人々の中に根付いていきました。特に、「汚れた生き物」は食べてはならない、「異邦人」と交わってはならないと子供のころから教え込まれていたのです(使徒10章、ペテロとコルネリウスの出会いなど)。そんなユダヤの人々に、イエスは「外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません」と、ハッキリと告げました。「こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた」(19) 外から入って来るものが人を汚すことはない、というのです。これを聞いていた人たちにとっては、天地がひっくり返るほどの考えられないようなことでした。
2)汚れは心の中から
2点目のことは、「人から出るものが人を汚す」ということです。ユダヤ人は、「外から入って来るものが人を汚す」と考えていたので、汚れた物を食べず、汚れた人や物に触れず、汚れを洗いきよめていれば、自分はきよくされていると思い込んでいました。しかしイエスは、それでは「きよくされない」と言われました。なぜならば、「人の中から出てくるもの」が人を汚すからだと言うのです。「汚れ」の原因は外にあるのではなくて、自分の中にある、ということです。「内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。」(21)ここに12の悪い考えや行為のリストが挙げられていますが、例えば「ねたみ」や「高慢」は、誰もが抱いてしまう思いではないでしょうか。人の心の中に「汚れ」のもととなるものがあるのです。聖書は、人の中には生まれながらにして「罪の性質」がある(それを持って生まれてくる)と説明しています。最初の人であるアダム以来、すべての人に受け継がれているものです。残念ながら、人の心はすでに汚れていると言えます。しかしユダヤ人は、そのことが分からずに、汚れが外から入って来ないようにすればきよく保たれると考えて、律法と口伝律法を忠実に守り行うことによって外側をきよく保とうとしました。そんな彼らにイエスは、どんなに外側をきよめても、「あなた方の内側がすでに汚れているのだよ」と言われたのです。私たちがどんなに良い行いをし、外側を取り繕ったとしても、私たちの内側、心の汚れはきよめられません。
3)心をきよくするための処方箋
では、私たちが心をきよく保つためにどうすればいいのでしょうか。聖書はそのための秘訣も教えています。3点確認したいと思います。
①1つ目のことは、「自分の弱さ、足りなさを素直に認めて、自覚し続けること」です。「心の貧しい者は幸いです」(マタイ5:3) 自分は罪深い者で、弱く小さなものに過ぎないこと、そして神様のあわれみと助けが必要な者であることを自覚出来る人は幸いだというのです。また、自分には罪はないと思い込むことこそ、大きな罪だと言えます(ヨハネⅠ1:8)。自分の中に、罪の性質が残されていることを、決して忘れることのないようにしたいと思います。
②2つ目のことは、「イエスが十字架で流された血を受け入れ、絶えず確認すること」です。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」(ヨハネⅠ1:7) 旧約聖書の時代、ユダヤ人は毎日のように牛やヤギをほふってその血を神にささげましたが、動物の血では不完全でした。しかし、神は、完全な罪の赦しを与えるために、神のひとり子イエス様を遣わしてくださいました。罪の全くない、きよいイエス様が十字架で流された血は、一回限りですべての罪をきよめることのできる完全なものです。イエス様がこの私の罪を負って十字架で血を流されたと信じて、信仰によってイエス様を受け入れるならば、その人の罪は赦される(覆われる)のです。イエス様の十字架の血潮によって、私たちの罪が赦され、どんな罪からもきよめてくださる、ということを確認し続けていきたいと思います。
私たちがイエス様を救い主として受け入れた時から、クリスチャンとしての歩みがスタートします。このことは「新生」と呼ばれます。しかし、これだけでは不十分です。生まれたばかりの赤ん坊から大人へと成長する必要があるのです。そのために大事なことは何でしょうか。
③そこで、3つ目のこととして確認したいことは、「聖霊に導かれて歩むこと」です。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」(ガラテヤ5:16) 私たちは一生涯、自分の中にある罪と戦い続ける必要があります。赤ん坊のままでいては、罪の力に抗うことはできません。しかし神は、私たちが罪と戦い、罪を退けることができるように、強力な助け主を私たちに与えてくださいました。それが聖霊(神の御霊)です。私たちがイエス様を心にお迎えする時に、私たちの心のうちに聖霊が宿ってくださいます。聖霊なる神様は、私たちにイエス様のことばを思い起こさせてくださり、人生のあらゆる面で私たちを助け導いてくださいます。聖霊は、罪の力が及ぶことのないように私たちを助けてくださいます。そのためには、聖霊のみ声に聞き従わなければなりません。聖霊に導かれて歩み続けることです。そして、イエス様のお姿に似る者へと少しずつ成長することを目指したいと思います。
私たちの心の中から出てくるものが、私たちを汚します。イエス様の十字架の血潮だけが、罪の汚れから私たちをきよめてくださいます。このことを忘れずに、私たちの内にいてくださる聖霊様の助けを祈り求めてまいりましょう。