●主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)
ルカの福音書23:32-49 「父よ、彼らをお赦しください」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」(イザヤ書53:12)
【礼拝メッセージ要旨】
今日の個所には、イエスがピラトのもとで裁判を受け、十字架刑を宣告され、処刑されるまでの一連の出来事が描かれています。イエスは、あの十字架の上で何をなされたのでしょうか。特に、2つのことに目を留めたいと思います。
1)イエスは十字架の上で苦しみを受けられた
一つ目のことは、「イエスは十字架で苦しみを受けられた」ということです。「十字架」は、当時犯罪人がローマ帝国の裁判によって受けた最も重い刑罰でした。生きたままで手足を釘付けにされて、長時間に渡って苦しみながら息絶えていくという、非常に残酷な処刑方法です。イエスも、生身のからだを持つ人としてこの苦しみを受けられました。しかしイエスは、それ以上に耐えがたい大きな苦しみを受けられました。それは、「見捨てられる苦しみ」です。イエスは人々から見捨てられました。弟子たちにも民衆にも見捨てられ、イエスには罪はないと分かっていたピラトにも見捨てられたのです。さらには、父なる神から見捨てられる、という苦しみも経験されました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46) それは、罪のない神の御子であるイエスが、人の罪を負うことによって「罪ある者」とされて、父なる神との親密な関係から切り離されてしまうことを意味していました。聖い神は、そのご性質から罪、汚れを受け入れられないからです。イエスにとって御父との親しい交わりから離されてしまうことは、私たちには想像もできないような大きな悲しみであり、苦しみであったはずです。また同じように、愛するひとり子を見捨てなければならなかった父なる神も苦しまれたのではないでしょうか。
2)贖いの代価として
では、イエス様はなぜこうした苦しみを受けなければならなかったのでしょうか。聖書は、イエスが私たちの罪を代わりに負って、本来私たちが受けるはずであった罪に対する刑罰を私たちに代わって受けるためであった、と語っています(イザヤ書53:5,ペテロⅠ3:18など)。イエスが十字架で苦しみを受けられた出来事を、聖書は「贖い」という言葉で説明しています。
「贖い」には、元々「奴隷として売られた人を代価を支払って買い戻す」という意味があります。そのように、神は罪の奴隷となっている人間を罪の奴隷状態から救い出し、解放するために大きな代価を支払ってくださったというのです。そのために支払われた「代価」が、神の御子イエスが十字架で流された「血」でした。本来ならば、罪を犯した私たちが自分で代価を支払わなければなりません。しかし、私たち人間にはその力も能力もありません。それほど私たちの罪が大きくて、私たちにはどうすることもできないということです。しかし、私たちの造り主であられる神は、私たち罪人をあわれんでくださり、深い愛を示してくださいました。何とかして私たち人間を罪の奴隷から救い出したいと願われて、神ご自身が私たちの罪のために必要な「贖い」を用意してくださったのです。そのために、父なる神は神のひとり子を人としてこの世界に遣わされました。そして、このお方に私たちの罪を負わせて、十字架で私たちの罪の処罰をされたのです。イエス様は、私たちのための「贖いの代価」としてご自身のいのちをささげてくださいました(マルコ10:45)。ここに、私たちに対する神様の大きなご愛が現わされています。
3)父よ彼らをお赦しください
二つ目のことは、「イエスは十字架の上で罪人のために祈られた」ということです。ルカ23章には、十字架を巡っていろんな人たちが登場してきます。ここに人々の心の思いが現われています。ほとんどの人たちは、自分の都合や自分の身を守ることだけを考えていました。人間の自己中心の姿がここに描き出されています。彼らの姿は、私たちの姿そのものを表わしているのではないでしょうか。私たちも、ねたみに駆られてイエスを訴えた祭司長たちや、自分の身を守るために正しいことを曲げてしまったピラトや、イエスを裏切った弟子たちと何ら変わらないと思うのです。イエスは十字架の上で、そうした人々の弱さ、罪をすべてその身に引き受けてくださいました。イエスを十字架につけた人たちの中にこの自分もいたのではないかと思わされます。私たちの罪、弱さがイエスを十字架につけた、と言えるのではないでしょうか。
イエス様は、そんな私たちの罪をすべてその身に負って、十字架の上でこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(34)イエスは、自分を十字架につけた人たちの赦しを求めて父なる神に祈られたのです。イエス様は、今も弱い私たちのためにとりなしてくださっておられます。
4)救いの約束
イエスのこの祈りを聞いていた者がいました。イエスと一緒に十字架につけられた二人の犯罪人のうちの一人です。彼は十字架の上で苦しみながら、自分の隣で十字架につけられていたイエスの姿を見、祈りを聞いて、驚いたと思います。「どうしてそんなことができるのか」、「この人は、一体どういうお方なのか」そんな思いを抱いたのでしょう。そして彼はイエスを信じました。イエスに救いを求めたのです。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(42)彼はせめて自分のことを思い出してもらえるだけでも・・と願ったようです。自分には赦されるような資格はない、と思ったのかもしれません。そんな彼に、イエスは、信じられないようなすばらしい約束を与えられました。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」これは、イエスと一緒に天の御国に入るという約束です。しかも、「今日」(いますぐ)だというのです。どんなにすばらしいことでしょうか。彼は罪を悔い改め、イエスを心に受け入れて、「罪の赦し」と「永遠のいのち」を得ました。この約束は、私たちにも与えられています。「イエスは、この私の罪ために十字架で死んでくださった」と信じて、イエスを自分の救い主として受け入れるならば、その人の罪は赦されます。そして、いつまでも神様から離れることはない(永遠のいのちを受ける)、というすばらしい約束です。
私たちも、この約束を、感謝をもって自分のものとして受け取りたいと思います。十字架の上で私たちの罪のために苦しみを受け、私たちのために祈られたイエス様に、心からの感謝をおささげしましょう。