主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

マタイの福音書27:27-50 「イエスは十字架の上で」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイの福音書27:46)

【礼拝メッセージ要旨】

今日は、「受難週」ということで、十字架の上のイエス様の姿とその言葉に目を留めたいと思います。十字架の上でイエス様は、どのような思いでおられたのでしょうか。

1)十字架へ向かわれるイエス
イエスが十字架につけられることになった背景には、イエスに対するユダヤ人指導者たちの妬みや憎しみがありました。彼らにとってイエスは、目障りな存在、いて欲しくない存在となっていきました。そんな思いは、やがて殺意へと変わっていきます。彼らはイエスの12弟子の一人であったイスカリオテのユダを買収し、イエスの居場所を突き止めて、ある夜ゲツセマネの園でイエスを捕らえます。イエスは、まずユダヤ人の大祭司の前で裁判を受け、そしてローマの総督ピラトに引き渡されます。彼らは当時その地域を支配していたローマの法に従って処刑しようと考えたのです。イエスに罪を見出せないピラトは何とかしてイエスを釈放しようとしますが、ユダヤ人たちの圧力に屈してついにイエスに十字架刑の判決を下します。自分の身を守るために正しいさばきを曲げてしまったのです。
イエスはローマの兵士たちからからかわれ、自分が付けられることになる十字架を背負わされてゴルゴタの丘にある刑場まで連れて行かれます。そうしてイエスは、二人の犯罪人と一緒に十字架につけられました。イエスは、人々から手のひらを返されるように、あざけられ、ののしられ、見捨てられてしまいました。

2)十字架の上のイエス
では、この十字架の上で、イエスは何を思い、何をされていたでしょうか?イエス様は、十字架で想像を絶するような肉体的な苦しみを受けられました。その苦しみを受けながら、イエスがなされたことがあります。十字架の上でのイエスの言葉からうかがえる、イエスの思いとして、3つのことを挙げてみたいと思います。

①一つ目のことは、「イエスは十字架の上で人々にあわれみといつくしみを示された」ということです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34) イエスは、自分を十字架につけた人々の赦しを願い、父なる神に祈りをささげました。また、この時一緒に十字架につけられた犯罪人の一人の悔い改めを聞かれ、赦しの宣言を与えました。さらに、母マリアのことを思いやり、ヨハネに託しました。イエス様は十字架の上で苦しみながらも、人々の心に寄り添われました。一人一人に深いあわれみといつくしみを示されたのです。

②二つ目のことは、「イエスは十字架の上で、「見捨てられる苦しみ」を受けられた」ということです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46) この時イエスは、父なる神に見捨てられるような思いを感じておられたのではないでしょうか。それは、罪のないお方が、人の罪を負うことによって、父なる神との交わりから切り離されるということを意味しています。神の御子であるお方でさえも、そう叫ばずにいられないほどの苦しみであったということです。イエス様は、「見捨てられる」苦しみを受けられました。ご自分の民から見捨てられ、愛する弟子たちからも見捨てられました。そして、人の罪を負って、父なる神からも見捨てられるような苦しみを経験されたのです。その「見捨てられる苦しみ」を受けられたからこそ、イエス様は、私たちが経験するどんな苦しみもすべて分かっておられて、「あなたを決して見捨てはしない」、と言ってくださるのではないでしょうか。

③もう一つのことは、「イエスは十字架の上で、父なる神への信頼を置かれた」ということです。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」(ルカ23:46)、「完了した」(ヨハネ19:30) これらの最後の言葉を見ると、イエス様は、父なる神様に信頼を置いておられたことが分かります。見捨てられると思えるような苦しみの中にあっても、父なる神への信頼を寄せていたのです。この信頼があったからこそ、私たちに救いがもたらされました。創世記22章にある、アブラハムが大切なひとり息子のイサクをささげるという場面が思い起こされます。このアブラハムとイサクの姿に、父なる神とイエスの姿が映し出されているように思います。

イエス様は、私たちの罪の贖いを成し遂げるために十字架の苦しみを耐え忍ばれました。肉体的な苦しみと、それ以上に大きな見捨てられる苦しみをも経験されました。それは、私たちには到底耐えられない、想像を絶するような苦しみであったと思います。イエス様は、そこまでして父なる神に従い、私たちを救いたいと願われました。ここに、父なる神様と神のひとり子イエス様の私たちに対する大きな愛が現わされています。私たちは、これほどまでに愛されているのです。この恵みを、新たな思いで、感謝をもって受け取りたいと思います。