主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

ルツ記4:1-13 「贖いの代価」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコの福音書10:45)

【礼拝メッセージ要旨】

今日もレントに関連して、ルツ記から、神様が私たちのためになしてくださった「贖い」について思いを巡らしたいと思います。

1)ルツとボアズの出会い
その昔、ユダヤのベツレヘム出身のエリメレクという人が、飢饉を逃れて妻のナオミと二人の息子を連れてモアブの地に移り住みます。しかし、エリメレクも二人の息子たちも相次いで亡くなり、ナオミとモアブ人の二人のお嫁さんたちが残されました。ナオミはユダの地に帰ることを決意しますが、若いお嫁さんたちのことを気遣って、彼女たちが実家に戻って再婚するようにと勧めます。ところが、兄嫁のルツだけは、姑のナオミを慕ってモアブを離れてユダヤの地に移り住むことになりました。やがてルツは、エリメレクの親類であるボアズの畑で落穂拾いをするようになります。ボアズはそんなルツのことを心に留めて、親切に扱いました。

2)「買い戻しの権利」について
ところで、「贖う」という言葉には「買い戻す」という意味があります。それは、一度他人の手に渡ってしまったものを代価を支払って買い戻すということです。イスラエル人にとって、土地は神の約束によって与えられた大切なものであり、神の祝福を意味しています。土地は先祖代々受け継ぐものであり、決して手放してはならないものとされていたのです。貧しくて土地を他人に売らなければならない場合は、近い親類がその人の代わりに代価を支払ってその土地を買い戻すことが定められていました。その権利が「買い戻しの権利」です。

3)ボアズ、ルツを買い戻す
この時ナオミは、亡き夫が所有していた土地を他人に売ろうとしていましたが、ボアズは買い戻しの権利を持つ親類の一人でした。ナオミは、ルツの幸せを願って、ボアズがルツをめとり、土地を買い戻してくれることを願います。そして大胆にも、ルツの方からボアズにプロポーズさせるように仕向けました。ボアズはその思いを受け止めて、土地を買い戻し、ルツを妻として迎え入れることを決意します。そして、ボアズよりも優先権のある親類と交渉し、彼が正式に買い戻す権利を得て、ルツを妻として迎え入れました。そうして、ルツとの間にオベデが誕生し、オベデの孫にダビデが誕生することになります。何とルツは、ダビデの曾祖母となったのです。

4)ボアズの姿に見る「贖い」
このボアズの姿に、聖書の大きなテーマである「贖い」ということがよく表されているように思います。ボアズは、ナオミとルツのことを思いやり、大きな代価を支払って土地を買い戻し、ルツを迎え入れました。彼は、自分の損得よりも彼女たちのことと、神様から預かった祝福をその子孫に受け継がせることを大事なことと考えたのです。ここに、神様が私たちのためになしてくださった「贖い」を見る思いがします。では、神様がなされた「贖い」とは、どういうことだったのでしょうか?

「人の子も、~多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)神様は、私たちを罪の奴隷から救い出すために(買い戻すために)、大きな代価を支払ってくださいました。人の罪が赦されるためには、それにふさわしい代価(償い)が必要とされます。神様は、私たちのためにその大きな代価を差し出しました。その代価とは、神のひとり子イエスのいのちです。イエス様は、あの十字架の上ですべての人の罪を代わりに負って、私たちに代わって罪の償いをしてくださいました。
「償い」と「贖い」には、厳密には違いがあります。「償い」には、罪を犯したその本人がその罪の代償を自ら支払うという意味合いがありますが、「贖い」という場合には、罪の代償を支払うのは、罪を犯した本人以外の他者、ということになります。つまり、本人は償いたくても償えない、自分ではどうすることもできない場合です。その時は、自分以外の誰かが、その人に代わって償う必要があります。それが「贖い」です。神様が私たちのためにしてくださったことはまさにこのことでした。私たちの中にある罪は、自分で償いたくても到底償うことができないほど大きなものです。もし自分で償うとしたら、自分のいのちを差し出したとしてもそれでもまだ足りないでしょう。自分では償い切れないのです。しかし、父なる神様は、私たちに代わって神のひとり子イエスのいのちを差し出してくださいました。全く罪汚れのないお方が、私たちの罪を代わりに引き受けてくださったのです。これが、私たち人間の罪が赦されるために必要な、唯一の解決策であった、ということです。

この神様のなされた「贖い」には、私たちに対する神様の大きな愛とあわれみが、余すところなく表されています。こんなに弱く小さな者のために、神様は一番大切なものを惜しみなく差し出してくださいました。この神様の恵みを覚えて、心からの感謝をおささげしたいと思います。また、私たちも、受けている大きな恵みに応えて、自分以外の他者のために何かできることがあるのではないでしょうか。愛する家族のために、近くにいる人たちのために、また、遠く離れているまだ会ったことのない人々のためにも、きっとできることがあると思います。祈りながら、自分にできることをなしていきたいと思います。